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連載・特集

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <1> タンバリンの少女

 広島の原爆によって19歳で死去した女学生河本明子さんは愛用したピアノと共に、21冊の日記(原爆資料館蔵)をのこした。ピアノと西洋音楽に親しんだ日々が、やがて軍国主義にのみ込まれる―。6歳から原爆投下の前年までつづられたページからは、一少女のヒストリーがまざまざと浮かび上がる。戦後、広島音楽界の礎となった人々の姿も垣間見える。(西村文)

西洋音楽 露教師に習う

 威厳に満ちた姿の外国人教師を中央に、弦楽器を手にした女学生たちが並ぶ1936年の写真。最前列の右端、笑顔でタンバリンを抱える明子さんを見つけ、HOPEプロジェクト(広島市佐伯区)代表の二口とみゑさんは驚きの声を上げた。今年5月、白系ロシア人被爆者セルゲイ・パルチコフさんの遺族が所有する約300枚から「発見」された。

 明子さんの遺品のピアノを所有するHOPEプロジェクトによると、明子さんは26(大正15)年、米ロサンゼルスで広島県出身の両親の長子として誕生した。ピアノの練習は6歳から始めた。保険業で成功を収めた父の源吉さんが購入した米国製ピアノだった。

女学院付属小に

 日本が国際連盟を脱退した33年、一家は広島市に帰郷する。同年4月、明子さんは広島女学院付属小学校(中区)に入学し、間もなく日記をつけ始めた。

 付属小学校は男女共学で、希望者にピアノやバイオリンの教室を開いていた。明子さんは同年9月の日記に「ピヤノノ本ヲモラヒマシタ」「ケフカラ マイニチ ナラフコトニナリマシタ」と、ピアノ教室に通い始めたことを習ったばかりの片仮名で書いている。

 1886(明治19)年に砂本貞吉牧師が開いた私塾を起源とする広島女学院は、広島では西洋音楽を学べる数少ない教育機関の一つだった。1911年には当時珍しかったオーケストラが結成され、26年から指揮を執ったのがバイオリン教師のパルチコフさんだった。

 広島女学院歴史資料館(東区)によると、パルチコフさんはロシア革命で故国を追われ、妻子と日本に亡命。広島市の歓楽街・新天地で人気を集めた洋画専門館「日進館」で無声映画の伴奏をしていたところ、バイオリンの腕前を買われ、26年に広島女学校(現広島女学院中高)の教師になった。

オケ楽しむ記述

 「『いっとー、にーとー、さんとー』と外国なまりの日本語で拍子を取っておられた」。42年に広島女学院高等女学部(現広島女学院中高)に入学した井上ヨネさん(91)=奈良市=は恩師を懐かしむ。バイオリンはパルチコフさんが神戸の楽器商から取り寄せてくれた。「ドイツ製で435円だった。当時としては高額だったので庄原から祖父が代金を運んできた」。オーケストラ入団の夢は、戦局の悪化でかなわなかった。

 明子さんが36年に4年生で参加したオーケストラの写真からは、まだ戦争の影は感じられない。日中戦争開戦前夜、日記からも音楽を楽しむ様子が浮かぶ。

 「(ピアノの先生が)ヴァイオリンの先生の所へ行って大人のオーゲストラを教へてもらひなさい、とおっしゃいました。私はタンバリンにきまりました」「今日は音楽会ですからうちのお母さんは、見にこられました。私は五番目にまさちゃんとピヤノを弾きました。二十番のオホゲストラにも出ました」

 「お姉さんたちと合奏することが楽しくて仕方なかったのでは。小さな胸に大きな夢を描いたのかもしれない」。二口さんは、写真の中で笑う10歳の明子さんを思う。

セルゲイ・パルチコフ
 1893~1969年。帝政ロシアの元貴族。1926年、広島女学校の教師に。島根大名誉教授の故竹内文子さんらバイオリン奏者を育てた。43年にスパイ容疑で連行され、退職。牛田旭(広島市東区)で被爆し、戦後は家族で渡米した。孫のアンソニー・ドレイゴさんが一家の伝記「SURVIVING HIROSHIMA」を9月に米国で出版予定。

(2020年6月18日朝刊掲載)

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <2> 米国から来た先生

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <3> 戦争の影

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <4> 変わりゆく生活

平和を奏でる明子さんのピアノ 第2部 日記は語る <5> 原爆



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