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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

原爆劇巡演 衝撃受ける

  ≪日本の敗戦で広島県などを間接統治した英連邦進駐軍が拠点を置いた旧軍港都市、呉で生まれ育った≫
 両親は「宇吹履物店」を吉浦町で営み、八つ上に姉、六つ上の兄、今は亡き弟との4人きょうだいです。父の静男は明治44(1911)年の生まれで幼い頃、安芸郡焼山村(現呉市)から吉浦に出てきたらしい。おやじが復員後も作った派手なげたは祭りや師走の時期に結構売れて、店は繁盛していました。

 母ヤスは矢野町(現広島市安芸区)の出身。女学校へ進むのを諦めて嫁がざるを得なかった分、子どもの教育に熱心でした。私が話し好きなところは多分、今春99歳となった母譲りでしょう。吉浦小の頃は教室でちゃちゃを入れてふざける。「お口にチャック」とよく𠮟られた。

 かつての進駐軍兵舎を転用した吉浦中に入ると、軟式テニスでした。「軽井沢の恋」と騒がれた皇太子の婚約で一躍ブームとなり、部員は約100人もいた。練習に打ち込み、県大会に出たが1回戦負けでした。

 広島へは幼い頃から家族でよく行き、原爆慰霊碑前の写真も残っています。母の親族は被爆していた。とはいえ原爆を意識するきっかけは、58年公開の映画「千羽鶴」。佐々木禎子さん(55年、12歳で死去)を悼み結成された「広島平和をきずく児童・生徒の会」が、同じ年に「原爆の子の像」を平和記念公園で除幕し、映画にもなった。吉浦小も団体鑑賞しました。クラスで呼び掛け、広島赤十字病院へノートや鉛筆を自筆の手紙を添えて贈った記憶があります。

 兄の哲夫に連れられて中学3年の時に地元で見た原爆劇は、衝撃的でした。「風化」(京大劇団風波が61年6月に京都で初演)といいます。学生時代に書く私小説風のタイトルを「風化」と記していた。探すと当時のノートが出てきました。「白血病で死んでゆく息子の前で絶叫する母親の姿が…」。絶叫を原爆ドームの姿と重ねて書いています。

 高校は学区制に縛られるのが嫌で広島市内の修道高に往復3時間かけて通いました。同級生に一つ年上がいました。破天荒さで知られ、中途で学校を去った。母親の胎内で被爆していたのを知ったのは、彼の証言を基にした書籍を研究者として手にしてからです。再会もしました。

(2020年7月15日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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