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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

鍛えられた史料解読法

  ≪1965年京都大文学部に入学する。高度成長にあったが4年制大学の進学率は12・8%だった≫
 修道高3年の時は理系クラスにいたが、何のために受験するのか、生きているのかと悩みだして…文学部だ、と。生きる意味を考える時間や場所を求め、変更したわけです。

 入学したら、新たな悩みに襲われました。クラスの議論に付いていけなかった。(65年の国交正常化を巡る)日韓闘争もあり、最初の授業の折から学生委員の選出で演説が飛び交う。マルクスを克服したとか、サルトルがどうだとかいうやつもいて。言っていることが分からない。

 それもあってサークルは各所に頭を突っ込み、美術研究会に入り、親鸞「教行信証」の講読会や、共同生活実践の一燈園に関心を持った。基礎がないから中途半端で、自分のアホさかげんを思い知らされました。

 3年生からは国史学を専攻した。学士院会員となる小葉田淳、「東寺百合文書」(97年国宝)を手掛けた赤松俊秀の両先生が指導教授、神様みたいな存在です。助手クラスが実質的に面倒を見たが厳しかった。東寺の荘園があった若狭国太良庄(現福井県小浜市)の調査も通じて、史料を開ける心構えから、どう読み込むのかを教えられた。鍛えられました。その経験は「資料屋」として私のヒロシマ研究につながっている、とひそかに自負しています。

  ≪60年代後半はベトナム反戦運動から大学紛争が一気に高まる≫
 学内で3年生の時に、文学部平和委員会を院生を含む仲間と再建します。大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」(65年刊)に触発され、夏休みの帰省を充て67、68年の原水爆禁止世界大会に参加した。原水爆禁止日本協議会(共産党系)の方です。原水爆禁止日本国民会議(社会党、総評系)との分裂は意識していなかった。それより広島の自分が知らせないと学内でも関心はもたれない、京都に出て被爆地を強く意識した。

 卒論は「鎌倉時代の在地構造」ですが、勉強が足りず大学院試験には落ちました。紛争拡大から卒業式は中止。京都府立総合資料館(現京都学・歴彩館)で「百合文書」を整理する臨時職員の業務に就きました。

  (2020年7月16日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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