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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

一本釣りで原爆調査へ

 文学部卒はつぶしが利かない。アルバイトで「東寺百合文書」を整理しながら大学院を再び受けるか、就職先を見つけるか、でした。広島県高校教員採用試験を受けたら、「社会科の担当にあきが出た」と県教委から連絡があって1969年10月、音戸高へ赴任しました。教えるのは楽しかったですね。教職員組合の行事にも積極的に参加しました。

 学生気分が抜けないところへ突然、熊田重邦さん(2013年、92歳で死去)が訪ねて来られた。京都大史学科の大先輩でしたが面識は全くありません。「県史編さん室に来んか?」。リクルートでした。

  ≪広島県史編さん事業は68年の「明治百年」を契機に始まり、県総務部が所管した。室は広島女子大(現南区の県立広島大)に置かれ、熊田教授が室長を兼務した≫
 総務部長だった竹下虎之助さん(81年から3期知事)に掛け合ってくれたのでしょう。2人は大学の同窓から親しく、70年4月に編さん室所属となりました。編集担当の先輩は2人いて、同期は後に大河ドラマ「毛利元就」の考証も手掛ける(広島大名誉教授)岸田裕之さんです。

 編さん作業は、原始・古代・中世史、近世史、近代・現代史などに分かれ、広島大の偉い先生方が各部会を仕切り、私より年上の大学院生が調査員で出入りする。広大閥の中にあって、熊田さんは手駒が欲しかったと思います。私とすれば大学で中世をかじったので厳島かと思ったが、入り込む余地はありません。

 ところが、最初に出す巻となると大いにもめた。先生方が手を挙げようとしない。すると、今堀誠二さんが「私が1年で作りましょう」と引き受け「原爆資料編」に決まった。日誌をみると70年6月のことです。

 それで資料編の担当となり、気難しさもあった今堀先生の専属係にもなったわけです。著書の「原水爆時代」で使われた文献を編さん室に運び、「今堀平和文庫」と名付けて独り悦に入っていた。東京出張にも同行しました。先生は戦前北京に留学し、当時は国交がなかった中国との関係で佐藤栄作首相から相談を受けていたらしく、中央官庁にも人脈を持つ。紹介されて、旧厚生省や防衛庁などが受け継ぐ原爆資料を調査していきました。

(2020年7月20日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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