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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

現代史 ガリ版で問う

 被爆75年となる中、「社会化された被爆体験」ということをあらためて考えています。人間が強いられた原爆体験はどう論じられてきたのか、社会的にどう記憶されているのか。記憶の中身や在り方が今ますます問われている、と思いますね。

 原爆の惨禍を終戦時の指導層は重く受け止めた。戦後において、いわゆる「左翼」ばかりではありません。保守層でも国民的な問題だと捉える意識が強かったといえます。

 「右翼」とみられた、三島由紀夫もそうです。ヒロシマを考えていた。あの事件が起きた時、県史の「原爆資料編」調査で旧防衛研究所戦史室を訪ねていて、遭遇したんです。所蔵資料を繰っていたら「出ろ、集合!」という声がした。みんなに付いていくと、三島がバルコニーで演説していました。

  ≪1970年11月25日、三島は、自身が率いる「楯の会」4人と東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入し、最期は自決する≫
 三島は、「私の中のヒロシマ」(週刊朝日67年8月11日号特集)のインタビューで、新型爆弾投下を勤労動員中に聞いて「世界の終(おわ)りだ、と思った。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある」と答え、「新しい核時代に…民族的憤激を思い起こすべきではないのか」と、彼らしい「核抑止戦略」論を述べています。

 ヒロシマとなると文学者では大江健三郎の名前が出ても、三島が懸命に考えていた人間とは今も捉えていませんよね。保守層には三島のような考え方をする人も多い。イデオロギー論争を含め現代史として整理していかなければと思います。

 75年、地元の若手歴史研究者らに呼び掛けて「原水禁運動史研究会」をつくりました。10人くらいの自主勉強会です。呉市の沢原家所蔵や県内各図書館で集めた、中国新聞記事(自主印刷再開の45年9月3日付~枕崎台風で中断直前の18日付)を基に、「被爆一ケ月後の広島」という冊子を作製します。マイクロフィルムから起こした「東京朝日の原爆批判キャンペーン」や、各碑文に刻まれた「慰霊碑の思想」もガリ版で出します。知人や出会った人たちに配りました。自分の研究テーマにしようと意識していました。

(2020年7月22日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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