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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

便利屋扱い 自由も手に

  ≪広島県史編さん室で「原爆三十年」を担当し、執筆にも当たる≫
 「原爆三十年」は、1975年に入って編さんが決まります。室の先輩らは県史各編に加えて福山市史などを引き受けて忙しい。まだ下っ端でしたが、先生方に交じって、「国民諸階層と原爆問題」などを書いたわけです。ある先生の決め付けた原稿を突き返すと、主幹の天野卓郎さんが交渉して書き直してもらった。広島の人権・平和教育においても存在は大きかったですね(後に広島女子大教授。94年に67歳で死去)。

 執筆者には、原医研助教授の湯崎稔さんがいました(84年に53歳で死去)。助手のポストがあいているので推薦しよう、と誘われました。原爆の問題をもっと研究できるのであれば…。私を鍛えてくれた先輩からは「逃げる気か!」と𠮟られたが、「原爆三十年」(76年3月刊)を完成させて退職に至ります。

  ≪広島大原爆放射能医学研究所は61年に設立され、74年に原爆被災学術資料センターを開設した≫
 76年5月からセンター資料調査室に出勤し、疫学・社会医学部門に所属します。広島市と県から誰かが集めた、約240万枚もの被爆者のレセプト(診療報酬明細書)がたまっていた。収納ケースを設計することから整理を始めました。給与は県史編さん室の方がよかった。大学の助手になるのは覚悟が要りますよ。

 「便利屋」とみられました。部門が違う教授は自分の仕事を押し付けてきた。「原爆と広島大学『生死の火』学術編」(77年刊)のために資料を探し、原稿を集めて文書を整えたが、編集に私の名前は出ていません。しかし自分で考え好きなことが言える。自由さも手にしました。

 社会学が専門の湯崎さんは、原爆爆心地復元(平和記念公園となった旧中島地区で68年スタート)を指揮した志水清教授の退官後も、調査範囲の拡大から夜遅くまで働く。いろんな話をし、旧住民の慰霊祭へ連れて行ってもらった。言い尽くせぬ思いにも触れ、敬虔(けいけん)な気持ちで研究に向かいました。それだけに湯崎さんが80年総合科学部に移り、愚痴をこぼしたら「めめしい」。秦野裕子さんに怒られた。私の仕事を助けてくれた事務官は、研究面でも同志のような存在でした。

(2020年7月23日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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