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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第3部 賀茂台地の記憶 <3> 酒造り

戦時の低品質から復活 現代に続く 先人の思い

 「金魚が泳げるほど水で薄めた酒」という意味から、戦時中に広まった悪質な酒は「金魚酒」と揶揄(やゆ)された。米が不足し、あらゆる産業が戦時体制へ移っていく1930年代後半から、酒造業界にも暗雲が漂い始める。

 三津村(現東広島市安芸津町)の醸造家三浦仙三郎(1847~1908年)が中心になって開発した軟水醸造法。それを発展させた「吟醸造り」は、広島酒の名声を高め、西条町(現同市西条町)が「酒都」と呼ばれるきっかけになる。ただ、酒米を多く削るこの製法は、原料の米がたくさん要る。食料用米の確保が最優先になると、一定以上の精米が禁止された。

蔵を軍需に使用

 戦争が激化した43年ごろから、企業整備の一環で酒造は一部の会社に集約され、他は休廃業を強いられた。寺西村(同)で1895年に創業した賀茂輝酒造(2014年廃業)は操業を中断し、蔵は軍需用に使われた。「子どもの頃、蔵の2階に上がると、軍に出す布などが置きっ放しになっていた」。同社最後の会長を務めた財満洋策さん(77)は記憶をたどる。

 西条町誌によると、1937年時点で一帯に15あった酒造場は、終戦直後は約半分にまで減った。  戦後は米不足が続く中、旧満州で開発され、同じ量の原料から3倍の日本酒が造られる「三倍増醸造法」が普及する。「三増酒」と呼ばれ、その後、質の低い酒の代名詞とされた。

 高度経済成長で暮らしが豊かになり、米の供給量も回復してきた50年代後半、酒都の復活を目指し、酒の質を向上させる動きが出始めた。「広島流の吟醸造りを当時の最高技術で再現する中で、吟醸酒と純米酒が生まれた」。同市の酒蔵史研究家で、「ニッポンの酒」などの著書がある松木津々二さん(65)は語る。

純米酒が主力に

 58年に賀茂鶴酒造(西条本町)が大吟醸酒の先駆けとなる「特製ゴールド賀茂鶴」を発売。専務だった市岡武夫(1906~93年)が「品質も見た目も一つ上のお酒を示したい」との思いで売り出した。

 さらにその7年後には、賀茂泉酒造(西条上市町)の社長だった前垣寿三(1918~95年)が「原点に立ち返り、米と米麹(こうじ)と水だけで日本酒を造ろう」と無添加醸造の研究を始めた。同酒造は現在、寿三の孫の寿宏社長(46)の下で純米酒を主力としている。「祖父は戦争で低下した酒の質を向上させようと奮闘した。その思いを引き継ぎながら、現代の技術も取り入れてよりいい酒を造りたい」(堅次亮平)

(2020年7月26日朝刊掲載)

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