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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

全て原典 限りなく探す

 ヒロシマの戦後史を考えると1960年代後半に新しい動きが市民レベルで起きています。ベトナム戦争反対、沖縄返還や公害を巡って民衆の声が高まった頃です。被爆地では原爆の風化が言われだし、子どもたちに「8月6日」の意義を指導するよう県教委が指示してもいます。

 その動きの一つが「原爆被災資料広島研究会」の68年結成です。市民自らが資料を集め、後世にも伝えて核戦争を起こさせない。政府に「被災白書」の作成と国連への提出を求めた金井利博さん(74年、60歳で死去)らが結成を呼び掛けました。

 原爆手記の研究に当たって私の出発点は、原災研が72年に出した「原爆被災資料総目録」第3集をボロボロになるまで引くことでした。収録2229編の執筆者や掲載書・誌名を色鉛筆で区分けして、手記の内容を学説史としても分析したいと思いました。そこから田原伯(つかさ)さん(32~2017年)との付き合いが始まり、資料収集のイロハから教えられました。資料に限りはない、探す努力が要る、雑誌を見ても広島・長崎・ビキニの文字をまずチェックする、と言う。

 とにかく原爆にこだわって「幻吉」と名乗り、師事した金井さん以外の人間とは一線を画す。「原爆で飯を食っとるじゃないか」。厳しい言葉を吐きながらも、原爆被災学術資料センターにふらり現れ、どこの公的機関にもなかった「われらの詩」一式(49~53年刊全19号)を見せ、知られていない話をする。私一人で聞くのはもったいない。78年に「現代と広島の会」を発足させ、広島市の被爆40年史を編さんする松林俊一さんや、センターの収集を助けてくれた「あき書房」の石踊一則さんら約10人に声を掛け、田原さんと互いに研究報告もしました。

  ≪収集に50年代前半から全生活を当てた田原さんは、所長のピカ資料研究所から84年に総目録第4集・占領期文献を刊行、45年8月末から52年末までに出た704点を紹介した≫
 全て原典からの確認です。「原爆により無念の死を強いられた人々の復権にあった」とあとがきに記しています。遺品となった雑誌類を昨年、私の書庫に持ち帰って整理すると創刊号も集めていた。涙が出るような思いがしました。

(2020年7月28日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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