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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

仲間が協力 楽しく研究

  ≪「被爆体験」を巡る研究論文を1980年代から次々と発表し、自治体の要請にも応じるが、広島大原医研助手の日々は13年余に及んだ≫
 ヒロシマを論じる研究者は被爆地でも意外と少ない。助手であっても論文は歴史学や国際政治学の学会に受け入れられました。それが「日本における原水爆禁止運動の前提」や「軍縮と市民運動」などです。

 地元でいえば「広島新史歴史編」(84年刊)や「広島県戦災史」(88年刊)の執筆を担当し、市の財団平和文化センターの求めで「平和記念式典の歩み」(92年刊)を著します。センター職員だった宇野正三さんが式典の手順書も集めてくれて読み込みました。47年からの歴代市長による平和宣言や71年に始まった首相参列などの式次からは、被爆者の援護と世界の核状況をどう見てきたのか、ヒロシマの平和思想のみならず戦後日本の変遷が見て取れます。

 自由な時間は多いし、人とのつながりが学内外にできて、楽しくてしょうがない。助手に留め置かれているという気持ちはなかったですね。付属病院の看護師さんたちに頼まれ広島大教職員組合の委員長も84年度に務めました。原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センターで助教授になったのは89年です。

 ある意味、好き勝手にやれたのは良き先輩、チームメートの協力があったからです。原医研に発足直後から勤める内田恵美子さんは、73年の米陸軍病理学研究所からの返還資料を整理し、私が出版ルートに乗らない原爆手記も収集するので自らも集めてくださった。センター発足の74年から88年末までの4090件は、彼女が3冊の「原爆関係蔵書目録」にまとめました。ここからデータベースの構築に着手できました。

 私より1年早く入った秦野裕子さんは、新聞5紙の切り抜きを小まめに続け、被爆問題について詳細な年表を作成しました。先行していた広島原爆障害対策協議会(53年発足)の切り抜きを質量ともに上回り、「原爆報道の軌跡」を85年に発表します。何でも言い合えた彼女の仕事に報いるためでもありました。

 内田さんが91年に49歳で、秦野さんは翌年に39歳で亡くなられ、「資料調査通信」は通算94号(91年9月30日発行)で休止となりました。

(2020年7月29日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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