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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

上京 俊英と議論し刺激

  ≪広島大原爆放射能医学研究所助手は、資料調査を自費でも続けた≫

 原爆後障害研究会が長崎で隔年で行われる時は、所属の疫学・社会医学部門が旅費をみてくれ、長崎原爆の資料を調べました。東京への調査となると個人でするしかない。金の工面は大変でしたが、自由に動けるのがうれしかったですね。

 1977年に外務省外交史料館で、広島で被爆死した米軍捕虜名簿を見つけたのも自費の調査です。「ポツダム宣言受諾関係一件」に含まれていた。市の「広島原爆戦災誌総説編」(71年刊)は目撃証言から米兵の被爆死を扱ったが、公的な資料で裏付けられた。共同通信が記事にし、政府が公式に認めていなかった米国の新聞でも報じられました。

 被爆体験を国内外の観点からも実証的に考察するには、資料や文献がふんだんにある東京へ行かなくては…。国立大教官の「内地研究員」制度を知り、飛び付いたわけです。上司の栗原登教授(2016年、90歳で死去)は優しかったですね。半年ではなく最大の10カ月にしたらどうか、と言って認めてくれました。

 一橋大社会学部の藤原彰教授に研究計画を送ると、面識はなかったけれど引き受けを「御承知致します」とのはがきが来て、80年5月から翌年2月末まで出向しました。

 ≪藤原彰氏(2003年、80歳で死去)は軍事史研究で知られ、共著「昭和史」(55年刊)は論争を巻き起こしてロングセラーにもなった≫

 研究室には後に名をはせる俊英らが大学院生でいた。他大学の若手研究者とも議論を重ねました。極東国際軍事裁判の研究で知られる、粟屋憲太郎さん(19年、75歳で死去)からは「宇吹さん、A(原爆)だけではない、B(生物兵器)・C(化学兵器)の問題もある」と英語表記の頭文字で挑発された。中国での日本軍毒ガス戦の研究を視野に収めていた。藤原先生を居酒屋で囲んでの夜の論戦にも刺激を受けましたね。

 東京では国会議事録を当たり、被爆体験が戦争犠牲者の援護、安全保障や原子力開発政策にどう反映されたのかを探り、大宅壮一文庫で雑誌記事も入手しました。壊滅直後の広島に入った都築正男博士の旧蔵資料を調べ、目録は「広島新史資料編Ⅰ」(81年刊)に収められます。

(2020年7月24日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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