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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

言い尽くせぬ個の記録

  ≪「原爆手記掲載図書・雑誌総目録1945―1995」を刊行する≫

 長崎も一緒に回って手記収集に当たった内田恵美子さんが亡くなった91年、追悼文を募ると、爆心地復元調査を率いた志水清さんは「生き字引的存在…」と寄せられ、続いて訃報が入りました(享年84)。「ヒロシマの枠組みは存在するものの、その良質の精神は、次第に失われている」。当時の日誌の記述です。

 広島市の平和行政もメディアも80年代以降、「ヒロシマの国際化」を盛んに言う。舞い上がっているとみていました。それより手記を徹底的に掘り下げようと思いましたね。

 原爆手記を書く営みは、惨禍の直後に始まり、連合国軍総司令部(GHQ)がプレス・コード(検閲)を発しても、この体験を残さんといかん、親や子、仲間を追悼せねば…とつづられる。限られたとはいえ、占領が明ける52年4月までの掲載誌数は120冊、534編が出ました。

 「思い出したくない」。胸のうちにも傷を抱えて書き残す営みは、被爆20年を機に広がりを見せ、学校や事業所など当時の所属組織、全国の地域被爆者団体、労組などが出版を担います。95年には241冊、5496編と過去最高を数えた。全体の執筆者の71%が広島被爆です。

 ≪計3万8955編を載せた3677冊の書誌情報・解説・索引からなる「総目録」は、国立国会図書館所蔵目録を手掛けた日外アソシエーツから99年に発行された≫

 出版のきっかけは、井上ひさしの芝居を続ける、こまつ座の季刊誌「the座」の特集(98年第37号)でした。「父と暮せば」の再演とともに、私が96年に発表した「原爆手記掲載書・誌一覧」の一部を紹介してくれた。それを見た日外の編集者が「国会図書館の所蔵情報を加えて出したい」と言ってきたわけです。

 被爆者の意識も行動も千差万別です。言い尽くせぬ体験が一人一人の人生にどんな意味を持ったのかを考察しなくては。今も書き続けられる手記は、「あの日」にとどまらず、原水禁運動をどう見たのか、核兵器廃絶にどうかかわっているのか、日本のありようや海外の反応も書かれている。平和への道しるべであり、広島の若い世代には、学校の、地域の歴史を身近に知る手掛かりです。

(2020年7月30日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <1> 研究半世紀

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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