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連載・特集

被爆75年 岐路の被爆者団体 <7> 広島から世界へ

発信の継続 政府に期待

 「ありえない」。三原市の本郷町原爆被害者友の会の中村澄子会長(86)は、トランプ米大統領が自国による史上初の核実験を「素晴らしい偉業」とたたえた16日の発言に怒気を強めた。1945年7月の核実験は翌月の広島、長崎の惨状へとつながった。「核被害を実際に体験した被爆者が、声を上げ続けないといけない」と病身に力を込めた。

会議へ代表団

 米ソの冷戦期から、被爆者は世界各地で自らの体験を語り、「もう二度と、私たちと同じ体験をさせてはならない」と訴え続けてきた。日本被団協は78年の第1回国連軍縮特別総会などに多くの代表団を派遣。2005年以降は、5年に1度の米ニューヨークでの核拡散防止条約(NPT)再検討会議にも送っている。

 中村さんは05年、10年、15年の再検討会議への代表団に加わった。自らの体験を語り始めたのは、夫を事故で失い懸命に3人の子を育てた後、50歳を過ぎてから。被爆者健康手帳を取得して友の会に関わるようになり、ようやく自らの体験を振り返るようになった。

 被爆したのは伴国民学校(現伴小、広島市安佐南区)6年の時。学校から、「真っ黒な夕立」を浴びながら帰宅した。数時間後、けが人が次々と逃れてきた。「ボロボロに焼けただれ、今にも崩れてしまいそうだった」

 翌日からは、親戚を捜して父親と市内に入った。川辺では、一帯を埋め尽くすほどの遺体が丸太のようにトラックの荷台に放り込まれていった。記憶に残るのは強烈な死臭。「いろいろな資料や写真があるが、あの臭いだけは決して伝えられない」と顔をゆがめる。

 地元を中心に証言活動を始めていた中村さんにとって、海外での活動は05年の代表団が初めてだった。

 ニューヨークの高校では「下手なりに」心を込めて語った。終了後、生徒たちが駆け寄ってきた。「学校で習ってはいたけど、実際に何があったのかは知らなかった。米国まで来て話してくれたあなたを尊敬する」。自分の言葉が伝わったのだとうれしかった。被爆の実態を知らせるのが自分の使命と感じた。

米でデモ行進

 帰国後、脳梗塞と子宮頸(けい)がんを相次いで患ったが、「使命」を胸にリハビリを続け、10年と15年の渡米も実現させた。証言を重ね、米国民に向けたデモ行進にも参加した。

 17年7月、核兵器の「非人道性」という考え方への注目の高まりを背景に、核兵器禁止条約が国連の交渉会議で採択された。122カ国・地域が賛成した条約の前文には、「ヒバクシャ」の受け入れ難い苦しみに留意すると明記されている。中村さんは「私が加わるずっと前から、被爆者が積み重ねてきたことの到達点だ」と控えめに喜ぶ。

 禁止条約はこれまでに40カ国・地域が批准し、発効に必要な50カ国・地域まであと10に迫った。気掛かりなのは、米国の「核の傘」に依存し、禁止条約に背を向け続ける日本政府の姿勢だ。小型核の実戦配備をはじめ、核体制の強化に走る米国に歯止めをかける様子もない。

 「被爆を経験した国だからこそ、禁止条約に率先して批准し、発効へ国際社会を引っ張るべきだ」。酸素ボンベなどの機器が手放せなくなり、20年4~5月に計画されていたNPT再検討会議での渡米は諦めた。その後、再検討会議は新型コロナウイルスの世界的な流行で延期され、新たな日程は定まっていない。

 中村さんを送り出してきた友の会は後継者がおらず、活動の継続は見通せない。「被爆者は動けなくなりつつある。『被爆国』を名乗るなら、私たちに代わって世界で核兵器廃絶を訴えてほしい」。中村さんは日本政府へ切に願う。(明知隼二)=おわり

(2020年7月31日朝刊掲載)

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