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連載・特集

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <13> 朗読劇

継承のヒントをつかむ

  ≪25年間所属した広島大原爆放射能医学研究所を2001年に退く≫

 原医研は、1986年のソ連チェルノブイリ原発事故による放射線被曝(ひばく)に目を向けます。研究予算も付くからです。職場の原爆被災学術資料センターは94年、国際放射線情報センターと改組された。自民党、社会党などの連立政権で被爆者援護法が成立した年です。

 ここでの研究は難しくなると感じる一方で、被爆地で起きた新たな動きに参加するようになります。原爆遺跡保存運動懇談会(座長・後藤陽一広島大名誉教授)が90年に結成され、直後から医療拠点となった旧広島赤十字病院本館の新築計画について見直しを求めた。平和記念公園レストハウス(元大正呉服店)や、95年に統合移転が完了した本部跡地の旧広島大理学部1号館の保存を他の市民団体と一緒に訴えます。集いでは積極的に意義を述べました。

 インターネットが急速に普及し、ホームページの制作を一から勉強して「ヒロシマ通信」を98年4月に開設し、これまでの論考や被爆建物、慰霊碑の情報を発信しました。この種のものでは早く、8月6日が近づくとアクセス数が急増し、海外からも共同研究の誘いが入りました。

 日誌をみると99年5月10日です。学長が原医研の教官を集めて大改組をぶちあげた(02年原爆放射線医科学研究所に)。いよいよ居場所はないぞと腹をくくりましたね。自分で就職先を探して幸いにも業績書の提出を求められ、移ったわけです。

 ≪01年広島女学院大教授に就く≫

 「授業を最優先」とくぎを刺され原爆のことはしばらく封印していたら、職員だった土屋時子さん(広島文学資料保全の会代表)に引きずり込まれて…。原爆手記の朗読劇で03年、人生初の舞台に学生たちと立ちました。女学院の手記集「夏雲」(73年編さん)を基に彼女がシナリオを書いて演出し、私は被爆時の院長松本卓夫氏の手記を読みました。

 やってよかったですね。学生たちの成長もすごく感じました。演劇や漫画、アニメなど若い人が関心を持つ文化面からアプローチすれば、被爆体験を知る重要なきっかけになる。授業にも身が入りました。

(2020年7月31日朝刊掲載)

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <2> 中学3年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <3> 国史学専攻

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <4> 県史編さん室

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <5> 「原爆資料編」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <6> 自主研究会

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <7> 原医研移籍

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <8> 内地研究員

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <9> 「資料調査通信」

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <10> 収集の哲学

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <11> 助手13年

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <12> 原爆手記

『生きて』 ヒロシマ史家 宇吹暁さん(1946年~) <14> 単著の通史

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