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連載・特集

被爆75年 幸子さんの手紙 <上>

時を超えつながった絆 当時の暮らし 鮮やかに

31歳で被爆死 疎開していた長男豊さんへの便りから

 あの日までの家族の暮らしぶりと温かな絆が浮かんでくる。横山幸子さんは、広島市大手町2丁目(現中区)で被爆死する直前の日々を手紙に書き残した。当時31歳。ほとんどの手紙は、西城町(現庄原市)に学童疎開した10歳の長男豊さんに宛てたものだ。遺族が数年前に見つけて、被爆75年のことし、冊子にまとめた。

 冊子のタイトルは「フレーフレー、ユタカ‼」。幸子さんの孫、上田小百合さん(56)=安佐南区=が、原爆投下前の1945年3月~7月23日につづられた16通を収めた。このほか、5月に冊子ができた後に見つかったのが8通。この手紙を、子・孫・ひ孫世代はどう受け止めるのだろう。巡り来た夏、それぞれの「継承」を追う。(林淳一郎、山下美波)

孫 上田小百合さん(56)=広島市安佐南区

感じる祖母の「声」 そばにいるよう

 祖母(幸子)はとても大変そう。建物疎開って、空襲で起きた火災が燃え広がらないよう、家を間引くように壊したんですよね。祖母たちの暮らしも戦争に追い立てられて、街の風景もどんどん変わって。この手紙で初めて、ああ、そうだったのかと。

 大手町にあった家は「わかさや足袋本舗」という古い商家だったそうです。国のためとはいえ、1週間ほどで立ち退きだなんて。文句も言わず、今じゃ考えられません。時代の空気に流されるというか。そこは怖いなと思います。

 戦時中って、彩りのないイメージでした。家も着る物も、みんな茶色で。どんな時代なのか、これまで想像もつかなかった。それが色づいて、暮らしぶりが鮮やかに見えてきたんです。

 祖母の手紙に「声」を感じるんです。会ったこともないのに、そばにいるみたい。いとこの由紀子ちゃんに見せてもらって一気に読みました。ほっとして心が温かくなった。あの日まで生きた祖母たちとぐっとつながって、家族が広がった気がしました。

聞けなかった過去 初めて知った

 祖母(幸子)の手紙を通して、幼い頃の母(蓉子)を初めて知りました。原爆は祖母も祖父(寿郎)も奪いました。母は祖父母のことを語らず、いくら聞いても「覚えていない」と。当時7歳です。両親を失った心の傷はどれほどだったか…。過去を振り返ったら悲しみの中に引き戻してしまいそうで、踏み込んで聞けなかった。

 手紙との「出会い」が、母をより理解するきっかけになったように思います。ちゃめっ気たっぷりなところは、今もまったく変わらない。あの日まで祖母たちに温かく見守られて育ったということも分かってきて。

 私自身も、原爆のことを考えるたび、恐怖で立ちすくむようでした。学校などで聞いた悲惨な被爆証言のせいか、小さい頃から焼け野原にいる夢もよく見ましたから。重く受け止めすぎて思考がストップしていたのかもしれません。

 祖母の手紙は、そんな私を解きほぐしてくれました。「フレーフレー」と、学童疎開先の豊さんを励ましているんだけど、75年後の私も勇気づけてくれます。こんなふうに生きんさい、こんな人になりんさいって、朗らかに、元気よく。冊子にしたのも、20代の娘2人や身内の子どもたちに祖母のことを知ってほしかったからです。

 原爆の悲惨さだけを突きつけられると遠ざけようとしてしまう。でも原爆が落とされる前の暮らしには生きる力が感じられ、その当時に一歩近づくことができる気がします。これからの子どもたちに祖母の手紙を読んでほしくて、冊子を2千部も刷っちゃいました。幸子さんのことだから「フレーフレー」って応援してくれていると信じています。

孫 岡本由紀子さん(53)=呉市

かけがえないもの 奪われた

 手紙の日付を見ながら読み進めると、胸が痛くなります。父にとって最愛の両親を奪ってしまう8月6日がどんどん近づいてくるんですから。原爆で失ったものが、どんなにかけがえのないものだったか。祖母の手紙は、そのことを私たちに教えてくれます。

 原爆が投下されるほんの少し前に、建物疎開をしていたんですね。手紙を読むまで、それがどんなものか想像できませんでした。空襲に備えて家を壊すなんて。戦争が暮らしを左右する。女性も容赦なく。それでも祖母は家族を思い、笑顔を絶やそうとしない。ほんと強い人だと思います。私も大学生の息子2人と高校生の娘1人の母親として見習うところだらけです。しっかりしなきゃって。

 祖母はとてもおちゃめだけど、しっかり者だったようです。父もそう話していました。店では朝一番に起きて、寝るのはみんなが寝静まってから。そんな祖母の言いつけを戦後も守っていたんでしょう。大ざっぱな父も、布団をたたむときだけは角をきちんと合わせて、「昔の癖が抜けん」と笑っていました。

 店があった大手町にもときどき、息子と娘を連れて行きます。あの日まで祖母たちの暮らしがあった場所に立って、私たちにつながるファミリーヒストリーを感じてほしいんです。

こんなにも大切にされていた、と

 すごく心配だったんでしょう。長男の父(豊)は学童疎開したくなかったらしくて。私が20代の頃、ふと言ったんです。「一日も早く帰りたかった」って。だから、祖母(幸子)の手紙が来るのを楽しみにしていたと思います。きっと笑顔になれたんじゃないかな。

 父は63歳で他界しましたが、優しい人で、生前はよく会話をしました。でも、戦時中のことはなかなか話してくれなかった。疎開先から戻ると、両親が亡くなっていたわけでしょう。焼け野原の広島の街を見て、どんな気持ちだったか…。

 かなり前ですが、「火垂るの墓」というアニメ映画をテレビで見たんです。すると、父が「消してくれんか」と。戦火で親を失った幼いきょうだいの物語だから、自分の記憶と重なるのかもしれません。話さないのは、それだけ寂しく、つらいんだと思えて。触れちゃいけないようで、聞くのをためらいました。

 祖母の手紙は、仏壇の引き出しに収められていたんです。いくつかの封筒に分けて。あるのは私も知っていたけど、父の宝物のようで開けることができませんでした。父が亡くなり10年以上たって、仏壇の整理中にたまたま見たんです。

 昔の堅い人だと思っていた祖母は明るく、幼い父をありったけの愛情で励ましている。こんなにも大切にされていたんだと知ることができて、うれしくて、うれしくて。仏壇の前で父がいつも「おばあちゃんに会わせたかったな」と言っていたのも思い出されて。その理由が分かる気がします。

店構えた「本通り」 壊滅

 広島市中心部にある「本通り」は被爆前、広島でも有数の繁華街だった。呉服店や食料品店、書店などが立ち並ぶ中、横山幸子さんが暮らした「わかさや足袋本舗」はあった。

 近くには、広島菜やワインなどを販売した「長崎屋」、洋風の建築が人目を引いた広島郵便局があった。すずらん灯が街を照らし、本通りは夜遅くまで買い物客でにぎわった。わかさや足袋本舗の東隣にあった三和銀行広島支店は、後に被爆建物として焼け残る。

 しかし戦争が激しくなるにつれ、閉める店や、建物疎開で移転する店が相次いだ。すずらん灯も1943年、金属供出のため撤去された。そして45年8月6日、爆心地から数十~700メートルにあった通り一帯は一瞬にして壊滅した。

 冊子「フレーフレー、ユタカ‼」。A5判124ページ。幸子さんの学生時代の日記なども掲載している。1500円。希望者はメール(sayu.unima.zaawawayoka@gmail.com)で申し込む。

(2020年8月5日朝刊掲載)

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