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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <8> 地下室の奇跡㊤ 友田典弘さん

袋町国民学校で被爆

渡韓 異境で流転15年

 爆心地から約460メートル。友田典弘(つねひろ)さん(78)は、広島市袋町国民学校(現中区の袋町小)で被爆したが、鉄筋西校舎の地下室にいて奇跡的に助かった。4年生だった。同時に流転の荒波にのみ込まれる。日本の植民地から解放された韓国へ渡り、朝鮮戦争の惨禍も体験した。「広島へ戻ってこられたのは15年後やった」。現在は大阪府門真市三ツ島に住む。

遅刻し駆け降りた

 1945年8月6日朝、友田さんは弟幸生さん=当時(8)=と登校した。建物疎開で取り壊した木造校舎の後片付けが始まろうとしていた。児童約70人が校庭に出ていた(「ふくろまち創立百二十周年記念誌」)。

 「遅刻したのでげた箱がある地下室へ駆け降り、靴を脱ごうとしたらピカッと光った」。地下からの外階段へ先に出ていた弟は死んでいた。校庭で倒れていた児童たちは歯だけが白かったという。やはり地下室にいた同級生の手を引き、比治山を目指して逃げた。

 自宅は大手町(現中区)。父は病死し、洋服仕立てを引き継いだ母タツヨさん=同(30)=との3人家族だった。母を捜して死臭の街を歩くなか、自宅2階に下宿していた男性と再会する。バラックを建てたが9月17日に広島を襲った枕崎台風で押し流された。朝鮮半島出身の男性は帰国を決め、友田少年を伴った。

 「親のいない僕を一人残すのは『かわいそう』と思ったんとちゃいますか。付いていくしかなかった」。門司から漁船で日本への引き揚げ者であふれる釜山を経てソウルへ着いた。「アボジ(お父さん)」。男性を言いつけ通りに呼んで各検問をくぐり抜けた。

 金烔進(キムヒョンジニ)と名付けられた。しかし、「アボジ」が結婚して子どもが生まれると居づらくなったという。13歳で飛び出した。今度は異境で独りとなった。駐留米兵相手に靴を磨き、路上でかますにくるまって寝た。

 米ソ両陣営を後ろ盾とする韓国と北朝鮮の間で50年に戦火が起きると、砲弾が目の前で飛び交う。「むごかった」朝鮮戦争は53年にようやく休戦となり、パン製造の店に住み込んだ。20歳のころから帰国を求めてソウル市庁を訪ねるが、門前払いが続いた。自暴自棄にもなった。日韓に国交はなかった。

忘れていた日本語

 「故郷ガナツカシクテ」(中国新聞58年11月13日付)。戸籍謄本を求める手紙が当時の広島市長に届いたのを機に扉は動きだし、ソウル市長の協力で60年6月に帰国を果たす。手紙を幾度も書いたのは梁鳳女(ヤンポンニョ)さんという婦人。「市場で使い走りをしていたころ知り合い、息子同然にかわいがってくれた」。日本語はすっかり忘れていた。

 夢にまで見た故郷だったがマスコミで騒がれた分、好奇の視線にもさらされた。「それで(在日)韓国の人が多い大阪に出たんです」。30歳の時に知人の仲立ちで結婚。転職したステンレス加工会社で働き続け、4男1女を育て上げた。

 友田さんは、被爆からの辛酸をなめた日々を「死ぬ覚悟で生きた」という。続けて、「若い時に苦労したから今も『元気やなあ』とカラオケ仲間にも言われるんですわ」と、終始明るい口調で半生を語った。

 だが、この話になると唇をかみしめた。

 仕事と家庭が落ち着くと「恩人」の梁さんを捜して訪韓を重ねた。95年に現地のテレビ番組に出演して長女と再会できた。「『あんたのことを母は死ぬまで心配していた』と言われ…」。その韓国へは「嫁はんを一度は連れて行ってやりたかった」という。伴侶の佳世子さんは昨年12月に75歳で急逝した。再び独り暮らしとなった身を、「さすがに応えますわ」と目頭をぬらして笑った。

(2014年7月21日朝刊掲載)