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連載 被爆70年

[ヒロシマは問う 被爆70年]交わらぬ日米の思い 記憶の瀬戸際 「戦勝の象徴」認識変わらず

 人類史上初めて核兵器の被害にさらされた地と、その兵器の開発に成功した地。70年の歳月を経た今、日本と米国それぞれで、体験を語り継ぐ活動が切迫感を持って続けられている。片や悲惨の極限として、片や国家の誇りとして。原爆に対する認識は、未来も交わることはあり得ないのか。両国の「語り継ぎの現場」から見詰める。(道面雅量、金崎由美)

関連施設の国立歴史公園化法成立

被爆地 正当化を危惧

 原爆開発と製造を目指したマンハッタン計画の体験継承をめぐり、米国内で大きな動きがあった。同計画に関係する遺構や施設を国立歴史公園に指定することを定めた法律が昨年12月、成立した。「原爆投下を肯定するのか」と広島と長崎から反対の声が挙がった構想は、被爆70年の節目に現実となる。

 法律制定の立役者となったのは、米エネルギー省職員だったシンシア・ケリー氏が2002年に設立した核遺産財団。関連施設が相次いで取り壊されるのを目の当たりにし、保存運動へ一念発起したのが財団設立のきっかけだった。ロビー活動で、賛同議員や団体を増やしていった。

 法律化へ、曲折はあった。12年には下院で「原爆の賛美になる」との批判もあり、必要な3分の2の賛成票を得られなかった。13年と今回は、独立した法案ではなく、米国防予算全体の枠組みを定める法案の一部として提出。「三度目の正直」となった。反対はもっぱら財政面からの懸念だったという。

「賛美しない」強調

 対象はロスアラモス(ニューメキシコ州)、長崎原爆のプルトニウムを取り出したハンフォード(ワシントン州)、オークリッジ(テネシー州)の3州に分かれる。原爆の組み立て施設、原子炉やロスアラモスにある「オッペンハイマーの家」も含まれる。

 これに対し広島市の松井一実市長は、キャロライン・ケネディ駐日大使に「被爆の実相を十分に踏まえていただくよう強く求める」とする要請文を送付。資料提供に協力する用意もあるとした。日本被団協は「原爆開発と使用の正当化を強調することを危惧し、絶対に許すことはできない」とのオバマ大統領宛ての書簡を出した。

 ケリー氏は「原爆投下を賛美したり、一方的な見方を押し付ける場にはならない」と強調する。「建物を消し去るよりは後世に残し、一人一人が原爆をめぐる歴史の複雑さを考える場にすべきではないか」

 日本国内にも、毒ガスが生産された竹原市の大久野島をはじめ、戦争の「負の遺産」が散在する。空間に身を置くことで、歴史の教訓がより胸に迫ってくることは確かである。

 原爆は日本の軍国主義を終結させた唯一無二の決定打で、上陸作戦で犠牲になるはずだった米兵100万人の命を救った―。米国では、歴史研究の常識と矛盾する「神話」が根強くある。マンハッタン計画の遺構を通じて、史実をどこまで丁寧に伝えるのか。受け手は素直に消化するか。そこが問題だろう。

「解釈が独り歩き」

 推進派の中心は、指定区域の地元出身議員である。法案が上院を通過した先月、ワシントン州選出のマリア・キャントウェル上院議員は「何百万人もがハンフォードでの科学的な偉業を学べる」「地域の観光経済の呼び水になる」と喜ぶコメントを発表した。

 科学技術の偉業としての原爆観と「まちおこし」のはざまで、結果的には国民が戦勝の偉業を祝う場にならないか。「公園ができてしまえば、解釈は独り歩きしてどうにもならなくなる」。日本被団協の田中熙巳(てるみ)事務局長(82)は懸念する。

 国立公園局が全体像を意義付けし、法律ができて1年以内に国立歴史公園を設立させるという。広島と長崎から米国に何を求めるのか、具体的に働き掛ける道筋を探る時かもしれない。

マンハッタン計画 余さず記録 NGOが証言集める

 「すべてが秘密だった。職場で何をしているか、といった話は一切してはいけなかったのよ」

 米国の首都ワシントンDCの北西約30キロ。メリーランド州ロックビルにある緑豊かな住宅地の一軒家で、ビデオカメラを前にローズマリー・レーンさん(93)が話した。米国が原爆開発に巨費を投じた国策、マンハッタン計画に関する体験証言の収録場面。アイオワ州出身のレーンさんは43年夏、広島原爆用のウラン濃縮が行われた南部テネシー州のオークリッジに、看護師として移り住んだ。そして原爆開発の中枢にいながら心を病んだ患者に触れた。

 証言を集めているのはワシントンDCの非政府組織(NGO)「核遺産財団(AHF)」。物理学者やエンジニア、開発自体には関わっていない市民も対象だ。初期に収録された証言も含め、約230人分をウェブサイトで公開している。「負の側面も含めて全て、いま記録しなければ」。シンシア・ケリー代表(68)は語る。マンハッタン計画の全体像を浮き彫りにし、余すところなく後世に引き継ぎたいという。

 米国の継承に、ヒロシマ・ナガサキの思いと重なる部分はあるのか―。

 ケリー代表との和やかなやりとりの中で、レーンさんが切り出した。「(原爆投下が)正当化されないと思ったことはない。日本は警告されたのに戦争を続けたのだから」。こちらに一瞬視線を向けたように見えた。米国が極秘計画を突き付けて日本に警告を発した、という事実は確認されていない。

 収録を終え、レーンさんが語り掛けてきた。「再び起きないことを願っているのよ」。女性と子どもが犠牲になる戦争に、常に胸を痛めているという。命を慈しむ心が伝わってくる。

 それでも、70年間消えないまま横たわる日米の溝を痛感せざるを得ない。

 被爆者にとって、8月6日は「あの日から」の苦難を刻む日だろう。米国人にとってマンハッタン計画は「あの日まで」懸命に駆け抜けた体験だ。自分たちと相手方、双方の「物語」に耳を傾け合い、歴史を繰り返さないための誓いにつなげていく。そんな日は来るだろうか。

被害伝える展示 模索も ロスアラモスの歴史博物館長

 国立歴史公園化の動きを受け、米国でも「原爆賛美」ではくくれない、試行錯誤の芽が見受けられた。マンハッタン計画の最重要拠点だったニューメキシコ州ロスアラモスを訪ね、地域の歴史博物館で、ヘザー・マクリナン館長(48)に聞いた。

 ―博物館の特徴は。
 マンハッタン計画時代はゲストハウスだった建物で、年間入場者は約3万5千人。本当に小さな施設だ。古代から現在まで、地域の歴史を幅広く伝えることに努めている。原爆開発計画も当然、重要な要素である。

 ―展示についてどんな課題がありますか。
 スペースが非常に限られているが、原爆被害についてもっと学べる展示が必要だと思っている。予算が確保できれば今年中にも職員を広島と長崎に派遣し、必要な情報収集をしたい。原爆資料館(広島市中区)と交流するきっかけも欲しい。

 ―この地で原爆被害を強調するのは難しくないですか。
 ロスアラモスは「原爆開発によって対日戦の終結に貢献した」という誇りを持つ土地柄。地域社会に支えられた博物館である以上、住民の気分を害することはできない。特に注意深さが必要であることは分かっている。とはいえ、論争を呼ぶ問題について逃げたくはない。

 原爆使用により日本で起きたこと。環境問題。核時代の始まりとしての位置付け―。歴史を単純化したり、こちらから一方的な視点を押し付けたりするのではなく、多様な情報を発信するべきだ。特に近年、博物館に求められている方向性でもある。

 ―被爆地では「被害を本当に理解しているのか」「結局は相いれないのではないか」という警戒心もあると思います。
 対話がなければ、考えがどう違うのかを知ることも難しい。幸い、博物館の運営委員会も私たちの方針に賛同してくれている。もう一歩前に出たい。方法はあると思っている。

日米の原爆観形成をめぐる主な出来事

1942年 8月 原爆製造「マンハッタン計画」が始動
  45年 8月 広島・長崎に原爆投下。トルーマン米大統領は「われわれは
         史上最大の科学上の賭けに勝った」と声明
      9月 連合国軍総司令部(GHQ)がプレスコード発令。占領下の
         原爆報道を制限
  47年 2月 スチムソン元米陸軍長官がハーパーズ誌に寄せた論文で「原
         爆を投下せず上陸作戦を取れば、米兵の犠牲者は100万
         人」との推計に言及
  49年 8月 ソ連が初の原爆実験。東西冷戦は核軍拡競争に突入
  52年 8月 アサヒグラフが「原爆被害の初公開」を特集
  54年 3月 ビキニ環礁での米水爆実験で第五福竜丸が被災、原水爆禁止
         の署名運動が広がる
  55年 8月 原爆資料館(広島市中区)が開館
         広島で第1回原水爆禁止世界大会
  62年10月 キューバ危機。核戦争の一歩手前まで米ソの緊張が高まる
  89年12月 米ソ首脳が冷戦終結を宣言
  95年 1月 米スミソニアン航空宇宙博物館が計画した原爆展が政治問題
         化。被爆遺品の展示は中止、5月に館長が辞任
  96年12月 原爆ドーム、世界遺産に登録
2014年12月 マンハッタン計画の研究施設などを米国立歴史公園に指定す
         る法が成立

マンハッタン計画
 第2次世界大戦中の米国による原爆開発・製造計画。ナチスドイツの先行を恐れたルーズベルト大統領が開発を命令。1942年、陸軍に組織された「マンハッタン工兵管区」の指揮により、英国も加わり極秘に本格化した。テネシー州オークリッジでウラン濃縮、ワシントン州ハンフォードでプルトニウム生産、ニューメキシコ州のロスアラモスではロバート・オッペンハイマーを中心に爆弾の設計・製造が行われた。

 45年7月16日にニューメキシコ州南部のトリニティ・サイトで史上初の核実験に成功したのに続き、8月6日にウラン型を広島に、3日後には長崎にプルトニウム型原爆を投下した。

「繰り返させぬ」風化に焦り

「次代へ」力を尽くす被爆者 広島市が伝承者養成

 あの日、原爆の爆風で顔に裂傷を負い、左目を失った。右目に焼き付いた惨状を、二度と繰り返させてはならないと語り続けてきた。

 「でも、あとどれだけ続けられるか分からない。皆さんの力が必要なの」。被爆者の寺前妙子さん(84)=広島市安佐南区=が、「被爆体験伝承者」に語り掛ける。高齢化する被爆者に代わって証言活動を担う人材を育てようと、広島市が始めた養成講座の受講生たちだ。

 現在、市の内外から応募した206人が27人の被爆者に向き合い、原則3年の研修を通じて体験の「引き継ぎ」に挑む。寺前さんは10人ほどの伝承者を率い、被爆直後の足取りをたどるフィールドワークをした。

■病に苦しんでも

 「ここにあった電話局の2階の窓から飛び降りて逃げたの。階段は、折り重なって倒れた人でふさがっていて」。同市中区袋町、広島中央電話局跡に立つ「鎮魂碑」の前で、寺前さんが記憶をたどる。

 当時15歳。交換手として学徒動員された。作業の直前、廊下に整列していた時に「窓の外に光るものが落ちていくのが見えた。何だろう、と思った瞬間…」。爆心地から540メートル。市発行の「広島原爆戦災誌」によると、出勤していた職員や学徒たち451人のうち、犠牲者は約半数に上った。「亡くなった友達に、いつも問われているような気がするの。意義ある人生を送っているか、とね」。子宮をはじめ七つのがんを経験した体を押して、証言を続ける。

 伝承者たちが鎮魂碑を立ち去る時、寺前さんは一人、振り向いて碑に頭を下げた。その姿にはっとした、伝承者2期生の大学4年榎田佳恵さん(22)=同市南区。「この感覚まで引き継げるだろうか」と自問した。

 今春から語りを始める伝承者1期生の辻靖司さん(72)=同市西区=は「本来、引き継ぐことなどできない体験を、それでも語り継がねばならない難しさ」を痛感する。「被爆者でない自分が、見てきたような語りはできない。その上で、何をどこまで伝えられるか」。悩みながら力を尽くす。

■平均は79・44歳

 79・44歳。厚生労働省がまとめた昨年3月末時点の、被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者の平均年齢だ。本年度末には80歳を超える公算が大きい。手帳の所持者数は初めて20万人を割り、19万2719人に。広島市ではそれぞれ78・93歳、6万1666人だった。被爆当時の記憶が残る世代に限れば、高齢化はいっそう極まる。

 「多くの人に核兵器廃絶への思いを共有してもらうには、証言を通じた被爆体験の継承は欠かせない。だが、それを被爆者だけに頼れない時期にきた」。広島市平和推進課の末定勝実被爆体験継承担当課長は言う。

 昨年度、同市の「被爆体験証言者交流の集い」に加盟する約20団体が行った証言活動は計2623件、参加人数で23万3400人。修学旅行生への証言を中心に、2005年度に件数が2500件を超え、以後も同水準を保つ。「被爆者の熱意ある協力でやってこられた。でも、10年後、被爆者だけで現状を保てないのは確実」と末定課長。伝承者の育成を急ぐ理由だ。

 中国新聞社が実施した全国被爆者アンケートでは、被爆体験を伝えることが「核戦争の防止や世界の平和に影響を与えてきたか」との問いに、「そう思う」「ある程度思う」と回答した人は計80・4%。「あまり思わない」「思わない」の計9・1%を大きく上回った。

 一方で、「体験継承はこれからどうなるか」と問うたところ、「心配ない」は3・6%にとどまり、計89・1%が「心配」「だんだん忘れられる」「急速に忘れられる」と回答した。いまだ多くの核兵器が存在する世界で、体験に基づく証言が「歯止め」になってきたとすれば、その将来は―。被爆者の不安や焦りがうかがえる。

世界へ訴え 粘り強く

 日米間にある原爆観の大きな隔たり。広島市南区の松原美代子さん(82)は、そのはざまに立つように、海外での証言に力を注いだ被爆者の草分けだ。「伝承者」に体験を引き継ぐ活動にも参加している。

 1962年、米国の平和活動家バーバラ・レイノルズさん(1915~90年)が企画した世界平和巡礼に同行し、欧米14カ国を訪れたのが最初。インドなどアジアも含め、国際会議や原爆展の場で、英語も駆使して証言を重ねてきた。

 「対人地雷やクラスター弾でできた禁止条約が、核兵器でできないわけがない。やりきらんといけん」。最近は体調がすぐれず、海外への渡航はままならないが、力を振り絞って伝承者に向き合う。

 その一人である山村法恵さん(64)=安芸高田市=は「松原さんの使命感の強さには圧倒される」と話す。山村さんの亡父も入市被爆者だが、娘にも体験を語ることはほとんどなかった。「目にした光景があまりに悲惨でトラウマになっていた。でも、それは松原さんも一緒。それを超えてきた人なんだと思う」

 松原さんは15年ほど前から、日本語と英語によるホームページも仲間と開設し、核廃絶への訴えを発信してきた。インターネットを通じ、とりわけ米国人から厳しい反論も届く。「原爆こそが戦争を終わらせ、多くの人命を救った」「日本軍のアジアでの残虐行為も載せろ」…。それらに粘り強く返信を書いてきた。「いつかは分かり合える。希望はある。だって、私の今があるのは米国人のバーバラのおかげだから」

 バーバラさんは、原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)勤務の夫と来日した広島で原爆被害の悲惨さに触れ、反核・平和運動に身を投じた。「彼女と出会い、憎むべきは米国の人々ではなく、戦争と原爆だと知った。泣いて暮らしている場合じゃない、声を上げようと思えた」

 広島市中区の原爆資料館の南に、バーバラさんの言葉を刻んだ碑が立つ。「私もまた被爆者です(I,too,am a hibakusha)」。世代も国境も超えて伝えねばならないことがある、被爆者でない私もそれを引き受ける―。「伝わるはず。そう励まされる」と松原さん。希望を捨てない。

関東学院大・奥田博子准教授に聞く

 被爆や戦争の記憶を伝え継ぐことの意義や課題について、著書「原爆の記憶」などで論じてきた関東学院大の奥田博子准教授に聞いた。

直接の対話でこそ、感じ取れることがある

 ―被爆から70年。記憶を伝え継ぐ上でどんな時期と考えますか。
 被爆者が高齢化し、その肉声に接することはますます難しくなる。直接会って話を聞くことの大切さをあらためて強調したい。私たちは声のトーンや間、沈黙からも多くのことを感じ取る。言葉にできない何かにも思いをはせることができる。残された時間は少ない。聞く側がより主体的、能動的にならないといけない。

  ―一人一人の具体的な体験に向き合うことの意義を強調されていますね。
 原爆が投下されたことは、戦争被害の象徴として国民的な記憶になった。それと、一人一人個人的であるはずの被爆体験が「唯一の被爆国」という言葉でくくられ、抽象化されていった過程は重なると思う。近隣のアジアをはじめ、諸外国の人々との原爆観や戦争認識のギャップももたらした。

 被爆者一人一人の人生観や価値観に触れ合うことを通して、その固定化を乗り越えられないか。当事者が語ることのできるうちに。

  ―原爆観の固定化は米国でもありますね。
 「多くの人命を救った」と原爆投下を正当化する認識は根強い。それもまた国民的な記憶だが、問い直すことなく引き継いでいては相互理解の道は開けない。

 被爆体験には「なぜ私が生き残ったのか」という私的な問いを、「なぜこれほど多くの人が死ぬことになったのか」という公的な問いに変える力がある。国の枠を超え、被害と加害の重なり合いを見通し得る力だと思う。それこそを引き継ぎたい。

おくだ・ひろこ
 米ノースウエスタン大大学院博士課程を修了。南山大准教授を経て現職。著著に「原爆の記憶」「沖縄の記憶」。専門はコミュニケーション学。

被爆体験伝承者
 被爆者の高齢化が進む中、代わりに体験を証言できる人材を「伝承者」として3年間で育てる取り組み。広島市が2012年度から養成を始めた。1年目は被爆の実態などを座学中心で学び、2年目は広島平和文化センター(中区)に登録する被爆体験証言者から個別指導を受ける。3年目は講話実習を積む。今春、1期生の約50人が修了する見込み。同センターから委嘱状を受け、原爆資料館などで修学旅行生や海外からの訪問者たちに話す。

(2015年1月5日朝刊掲載)