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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 爆心地の惨状書き残す 170メートルで被爆の野村英三さん 追悼祈念館が収集へ

 広島原爆のほぼさく裂直下で被爆して奇跡的に助かった、野村英三さん(1898~1982年)が自分史を書き残していた。爆心地一帯の惨状を伝える新たな記録でもある。三男英夫さん(80)=広島市中区=が保管し、平和記念公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は収集に乗り出す。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 1945年8月6日、県燃料配給統制組合職員だった野村さんは、爆心地の西南約170メートルとなる燃料会館(現平和記念公園レストハウス)の地下室にいた。出勤者は37人で、うち8人がコンクリート造りの館内から脱出したが、唯一の生存者となった。

 「わが想い出の記」は、「原子爆弾の投下」と題した被爆状況をはじめ400字詰め原稿用紙約800枚に半生をつづる。72歳から数年かけて執筆していた。

 脱出直後の元安川では、「一瞬川向かいのドームの方で赤ん坊の泣(き)声がしたように思った」と記し、近くの防空壕(ごう)には「四五人の男女が寝そべっていたが、誰も物も云(い)わないし動きもしない」と、爆心地の様を鮮烈に表している。

 さらに、核開発競争にしのぎを削る現状と未来をも危惧していた。自らは一命を取り留めたとはいえ、「今後の大戦では三十七分の一も生存することは難しいだろう。全地球を放射能が取り巻いて丈夫な者でも病気にし死に至らしめるだろう」とみていた。

 野村さんは、広島市が50年に「原爆体験記」を募ると応じ、「爆心にあびる」の題名で掲載された。旧広島大原爆放射能医学研究所が72年に半径500メートル以内での生存者が78人いることを突き止めると、最も近距離だったのが分かり、証言活動を晩年まで続けた。

 自分史は、鮮明な記憶を表した50年の手記を基に、連合国軍総司令部(GHQ)の占領期に書き切れなかった被爆の惨状や、核兵器が存続する世界への危機感を書き留めたといえる。

 原爆手記を集めている祈念館は「貴重な記録であり複写でもいいから所蔵・公開したい」との考えを示し、英夫さんは協力する意向だ。

(2015年1月15日朝刊掲載)