×

原爆記録写真

ヒロシマの記録 海軍原爆調査団の軌跡

■編集委員 西本雅実

 被爆2日後のヒロシマを記録した貴重なプリントが現存していた。保存していた北川徹三さん(1907~83年)は、戦後はガス検知管の発明など安全工学の発展に努めた物理化学者。北川さんが残した資料をたどると、広島市・県の原爆史書にも表れない海軍調査団の知られざる軌跡が浮かび上がってきた。

「誠に惨たるもの」

 北川さんの発明を基に設立された光明理化学工業(川崎市)を受け継ぐ次男の不二男さん(64)が、海軍の原爆調査団の行動を知る手掛かりを持っていた。父の「海軍省勤務録」。1942年の任官以来の日々が1行ずつノートに横書きされていた。1945年当時は東京・目黒にあった海軍技術研究所に所属する中佐。

 「父は原爆の話はほとんどしなかった」という。それでも晩年の1979年に日本保安用品協会の機関誌に広島での調査を顧みた一文を寄せていた。不二男さんが写真とともに呉市の大和ミュージアムへ寄贈した報告書や、父が郷里の滋賀県に疎開させていた母へ終戦の4日後にあてた手紙と付き合わせると、調査団の詳細が分かってきた。

 「広島特殊爆弾被爆」を翌8月7日に海軍省からの電話連絡で聞き、「1100軍令部ニテ打合」。米内光政海軍大臣の密命を受け、10人からなる調査団(団長は艦政本部の安井保門大佐)の一員として特別機で午後4時に羽田を離陸し7時半、岩国航空基地に着く。

 一行は8日午前5時半に岩国をたち、広島に入る。崩れ落ちた広島城の前で、前日から入り写真も撮っていた三井再男(またお)大佐が率いる呉鎮守府調査団(13人)と合流する。

 両調査団は、爆風による建物と樹木の倒壊角度や熱線による防空壕(ごう)の焼け具合から、さく裂地点は「護国神社南方三〇〇米 推定高度五五〇米」(その後の研究で、現在の中区大手町1丁目5番25号の島外科、高度600メートル)と早くも解析している。

 午後は「落下傘調査」で亀山村(現安佐北区可部町)に北川さんも向かう。落ちてきた落下傘付きの円筒機器を時限爆弾と住民は恐れ、避難していた。2個を回収し、爆発の威力を測定するために投下された観測器と後に判明する(投下は3個)。呉潜水艦基地隊での討議は午後8時に始まり終了したのは午前0時。

 9日のソ連侵攻の一報を受け、安井団長らは東京に引き返すが、北川さんは海軍調査団で一人残る。翌10日に控えた陸海軍合同研究会に出席するためだった。

 臨時の救護所ともなった陸軍兵器補給廠(しょう)(現在は南区の広島大霞キャンパス)で開かれ、理化学研究所の仁科芳雄博士や京都大の荒勝文策教授が加わったこの席で、「原子爆弾ナリト認ム」(大本営への報告書草案)との結論に至る。市内で研究用の試料を採取した後、夜行列車で広島をたっていた。

 軍人としての公務を記した「勤務録」には「被害視察 悲惨」(8日)にとどめる。しかし、妻にあてた「8月19日」付の手紙では廃虚で見た光景や、思いを明かしていた。

 「一発の原子爆弾に依(よ)り広島市は壊滅、直径四粁(キロ)内は全壊焼失し(略)焼死者の取(り)片付けも未(いま)だ終つてゐませんので誠に惨たるもの」とつづり、「真の日本の建設に」は「文化としての科学の根を生活の隅々まで張りめぐらさねばならない」と記している。

 北川さんは、京都大大学院時代に「邦文の参考資料は見あたらない」原子核の分裂を研究し、荒勝教授らと海軍の原爆開発計画に携わっていた。

 晩年に表した一文は「私がいま一生を捧(ささ)げて安全工学に専念する動機になったものは、この原爆調査ではなかっただろうか(略)調査を体験した者の実感として、再びこのような惨害が繰り返されないように、世界の核軍備をもつ国の人々に訴えたいと思う」と結んでいた。不二男さんによれば、写真を含めた調査記録はかばんにひとまとめにして保存していたという。広島で入市被爆しながら被爆者健康手帳は申請していなかった。

 北川徹三さんが保存し、次男の不二男さんが大和ミュージアムへ寄贈していた1945年8月8日撮影の写真は15枚(原寸は6.2×8.5センチ)。6日に呉海軍工廠(しょう)から撮られた原子雲のオリジナルプリント(15×10センチ)もあった。撮影場所の確認は原爆資料館や広島城の学芸員らの協力を得た。現在の写真は中国新聞の室井靖司撮影。

(2010年8月2日朝刊掲載)

関連記事
被爆2日後の 写真現存 海軍撮影 呉に15枚(10年10月3日)

※写真はクリックすると大きくなります。