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ローズ米大統領副補佐官 単独インタビュー全文

  ―最初に5月27日を振り返ってもらいたいと思います。平和記念公園を訪れ、どんな気持ちになったでしょうか。歓迎の人波に驚きましたか、それとも想定の範囲内だったでしょうか。オバマ大統領も感想を漏らしていたのなら聞かせてください。
 訪問がこれまでにない経験となるであろうとは感じていたが、実際にどんな感情になるのか、事前に予測はできなかった。ただ、大統領とともに広島演説の作成に取り組むからには、平和記念公園に立ったときの感覚について想像を巡らせることが必要だった。そのことに数日間を費やした。

 広島に降りたってすぐ大統領の車列で公園に向けて出発したのだが、あれだけ大勢の観衆が沿道で歓迎してくれたことに驚いた。実は予期していなかった。私はもっぱら、「米国が原爆を落とした地に米国人として訪れるとは、どんな感覚か」について考えていたからだ。歓迎してくれる人たちに対して、私たち皆があふれ出るような感情でいっぱいになった。沿道にいろんな顔が見えた。自分が感極まった場面として覚えているのは、男の子が笑顔で「広島へようこそ」というサインを持っていたのが見えたとき。71年前だったらここに立っていた男の子に何が起こっていただろうか、と考えた。しかし今、その男の子は自分たちを歓迎してくれている。とにかく、圧倒されるような予想外の経験だった。

  ―平和記念公園と原爆資料館を訪れての印象についても聞かせてください。大統領は公園到着後すぐに原爆資料館に入りました。何を見たのでしょうか。展示に関してどんな印象を述べていましたか。同行していたのであればあなた自身の感想も聞きたいです。
 招待客が演説会場で迷わず着席できていることを確認するため、私は(オバマ氏より)早めに席に着いた。私が知る限りでは、大統領は複数の展示物を目にしており、その中には原爆のさく裂を経て残った実物資料や写真があった。資料館のすべてを見学することはできなかったとはいえ、原爆のすさまじい破壊力を想起させる品々から、どんな資料館であるかを感じ取ることはできた。大統領は特に折り鶴の展示に心を動かされたという。「なんと美しいことか」と話していた。あれほどの破壊の末、広島の人たちにとって多くの意味を持つ美しい象徴が存在するということに大統領の感情がかき立てられた―。それが大統領の主な述懐だ。

 私自身が胸を打たれたのは、大統領と安倍晋三首相の演説を最前列席から聞いていたときの体験だ。一つ目は、公園を取り囲むたくさんの観衆。そして感動的だったのは、ある種の「静寂」だ。大勢の人が集まると、通常は会話が聞こえるもの。しかし、カメラのシャッター音以外はほぼ完璧な静寂だった。三つ目は、この公園の美しさ。簡素ながら非常に印象深く、さまざまなことに無言で思いをはせることのできる空間だった。

  ―原爆資料館の見学は10分間、平和記念公園の滞在もわずか50分余りでした。広島が体験した悲惨を理解するのに十分でしたか?
 確かに短い訪問ではあった。しかし、なにしろ米大統領として最初の訪問だ。われわれは、短い時間で簡素な計画が適切だろうと思った。オバマ氏が広島に行くという事実。そこで語り、花輪を手向けるという事実。そのこと自体が何より重要だと思った。将来の米大統領も被爆地を訪れてほしいと私は望むし、オバマ氏自身も大統領を退き時間的な余裕ができれば将来再び行くだろうと期待している。

 われわれが目指したのは、たとえ滞在時間は短くても多様なストーリーに触れる機会を確実に確保することだった。だから原爆資料館で被爆体験を物語る展示物や写真を見学するとともに、原爆被爆者を演説に招待した。2人(坪井直さんと森重昭さん)は、大統領に特別強い印象を与えてくれた。多くの被爆者を代表するという強い責任を感じながら、すべての生存者のために語ってくれた。彼らがどれだけ感動していたのか、この場でのことが2人にとってどれだけ大切な意味を持つのか、大統領に強く印象づけた。われわれは、2人の核兵器に反対する思いを再確認することもできた。

  ―演説内容についての質問に移りたいと思います。「いつか証言する被爆者たちの声は聞けなくなる。それでも1945年8月6日の朝の記憶を風化させてはならない」という箇所など、広島と長崎で普段から私たちが話している言葉そのものが入っていたので少々驚きました。子どもについての言及もあり、非常に重要だと思いました。演説原稿を書く際、本やインターネットで被爆体験について学んだのですか。
 われわれが行った作業は、こうだ。まず、大統領が私に対して自らが望む方向性を示す。それを受けて私がホワイトハウス内の調査班にリサーチを指示する。今回の場合、できる限り多く、説得力を持つ生存者の物語、それも多様な被爆体験を集めてもらった。私自身、相当数の被爆体験証言を読んだ。非常に困難な作業だった。数多くの悲惨な体験に触れるのだから。これまでの演説原稿の中で、最も感情面で自らを絞り出すようにして書いたと思う。手記には共通点があった。衝撃を受け空恐ろしくすら思ったのが、あの日の閃光(せんこう)であり、被爆後の状況についての描写だった。

 被爆時の体験だけでなく、その後歩んだ人生についても調べた。たとえば、(広島で被爆死した)米国人を見つけ出した男性(森さん)だ。私は衝撃を受けた。活動家として広島での体験を語ることに人生をささげてきた人たちについても読んだ。それこそが、オバマ大統領の「この特別な世代がいつか亡くなってしまう。だが、広島と長崎の人だけでなくわれわれのやるべきこととして、皆が彼らの物語を語り続けなければならない」という訴えの着想を与えてくれた。

  ―子どもをはじめ市民の原爆犠牲に言及したということは、原爆使用が非戦闘員の無差別攻撃に当たることを意味しており1945年当時の国際法に違反していたことを自ら認めたに等しい、という指摘もあります。演説がそのように解釈される可能性について議論しなかったのですか。
 答えは、イエスでありノーだ。まず、1945年当時の国際法の本質についてわれわれは検討しなかったし、検討することも考えなかった。われわれが考えたのは、あの演説が原爆と核兵器をなくそうとする努力について語るためであり、戦争と、戦争によって傷つく市民について語るためだということだ。

 大統領は、人間を殺すことができる科学技術に加え、われわれが戦争に突入したという事実について語ろうとした。実はあの戦争では、これ(原爆)が市民を殺す技術の最も極端な使用だった。だが同時に、大統領が演説の中で列挙している通り、すべての当事者が市民の殺りくに関わったのがあの戦争でもあった。だからこそ、国際法順守と法規範の強化について、その必要性を語ったのだ。大統領はまた、市民の殺りくを止めるためには「道徳の目覚め」が必要だとした。戦争に向かう衝動と科学技術が合わされば、広島が経験した悲惨さは繰り返されると歴史が示している。

 大統領は演説原稿を何カ所も書き直すよう指示した。自分自身の手で書き入れた。通常はないことだった。

 それは、オバマ氏が自身の中でバランスを取ろうとしたからである。まずは、広島で起こったことを、われわれ自身がその場に身を置きながら語る。なぜそうすべきかを確認するとともに、広島から教訓を得る。それらに加えて、われわれ人類に他者を傷つけ合う衝動があるという事実とどう向き合うのかについても語りたかったのだ。もしこの命題と向き合わないなら、平和と軍縮を追求することはできず、広島から真に学んだことにはならない。

  ―演説内容について、もう一つ。「71年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった」という表現で演説を始めています。非常に文学的で繊細な描写ですが、冒頭の美しいフレーズはどう思いついたのですか。
 オバマ氏自身が書いたものだ。私が書いた草稿を彼に渡すと、オバマ氏が自らの言葉を書き加え始めた。それがあの1行目だ。完全に彼が書いた部分である。私の草稿はあんなに美しくなかった。単に「71年前、世界が永遠に変わってしまった」だったかな。オバマ氏の表現の方が素晴らしかったことは認める。

  ―この表現が「きのこ雲の下」にいた人たちの視点に立っていると高く評価する声を聞く一方、米国の大統領の立場としては「落ちてきた」ではなく「落とした」ではないか、という批判もあります。誰が落としたのか、という主語を伴った事実が曖昧にされた、という指摘です。
 誰が落としたか、は皆が知っている。だからあえて控えめな表現にした。彼はより詩的な言葉や文章を使おうとした。本当の意味で、あの日のことを完璧に描写することは不可能だ。あれだけの体験を言葉によってそのまま再現ことはできないし、実態のすべてをつかみ取ることもできない。私自身、被爆証言を読んで感じたことでもある。

 証言に一つとして同じものはない。ある人は家に戻るとすでに倒壊し、家族全員が亡くなっていた。ある人は水を求め…まさに恐ろしい体験だ。私が思うにオバマ氏は、むしろ一般化された言葉によってあの瞬間のすさまじさを捉えようと考えた。

  ―オバマ氏の演説に心動かされた半面、軍縮の具体策がないことには失望したと言う人たちがいます。1兆ドルを使って核兵器の近代化計画を進めており、「核兵器なき世界」との言行不一致だと批判されています。大統領が核兵器使用を命令する際に使う装置として「核のフットボール」を被爆地に持ち込んでいたと複数のメディアが報じ、反発が起きています。これらの批判のすべてにどう回答しますか。
 それらの批判については理解している。私がヒバクシャならば、核兵器をなくすための最も野心的で積極的な行動を主張するだろう。被爆者が実際そのように行動していることや、われわれを批判してくれることをありがたく思っている。われわれがこの方向に進むためには、人々からのプレッシャーを必要としているからだ。

 第一の点でいえば、われわれは広島を訪れた瞬間そのものが力強いものになると思っていた。だから、新たな政策の説明や、政策課題の実行について説明する場として使うことはしたくなかった。オバマ氏の選択だった。

  ―政策説明ではなく、犠牲者の追悼の場にしたかった、というのもありますか?
 オバマ氏は、この場に身を置いての自らの思いを描写するとともに、亡き者を追悼することが適切だと考えた。単に政策上の方針を披露するのではなく、広島訪問から導き出される軍縮追求という道徳的な使命について語るということだ。彼は米国の核兵器を減らすことと、核兵器の拡散を止めることに努力してきた。だが、彼はさらに努力したいと思っている。われわれは今なお、政権の最後の瞬間までにどんなステップを踏めるのか、検討している。核兵器を取り除くことはできなくても、核兵器の数と役割を減らし、軍縮への道を引き続き進んでいく。

 予算について言えば、難しい点はある。他国が核兵器を持っている限り、われわれは自国と同盟国のため十分な抑止力を保持しなければならないからだ。とはいえ相当な予算規模になっていることは認識しており、精査を続ける。これは現在進行中の見直しだ。

 最後の指摘(核のフットボール)について私が思うに、ポイントはシンプルだ。大統領がどこへ行こうとも、どんな状況になっても対応できるよう、安定した通信能力を持っていなければならない。それがしばしば「核のフットボール」と一緒くたに言われているが、実際には大統領がいかなる状況でも対応できるための装置一式である。それには核兵器の発射事案への対応というものもあることは認める。だが、例えば電話回線も含まれる。大統領は数多くのインフラを携えて旅行しなければならないのだ。批判は分かるが、現実として核シナリオの際にコードを携えて対応できる人間が大統領と一緒にいなければならない。

 われわれは批判を気に病むことはしない。なぜならわれわれは(「核兵器なき世界」という)ゴールにまだ達していないから。もしも人々が「大統領が『核のフットボール』を持っているという事実は、努力が不十分であることを示している」と言うなら、それは正しいと私は思う。しかし同時に、バランスを取らなければならないのだ。ロシア、中国…他の(核兵器保有)国が継続して特定の方針を採っている限り、われわれもそうするしかない。

  ―核軍縮について語らなかったように、同盟国日本に対する核抑止力の保証や北朝鮮問題への対処といった点についても具体的に語らなかったのだと分かりました。
 そう、同じことだ。もう一つ言えるのは、政策について語るなら多くの言葉で説明しなければならない。プラハ演説だったら、いくつもの政策について説明できた。

  ―いわゆる「謝罪」を巡っても質問しなければなりません。広島訪問は原爆投下に対する謝罪のためではない、とローズ氏自身が事前に発信していましたね。米国で広く信じ込まれているように、原爆を使ったからこそ戦争を早く終わらせることができた、と肯定する考え方に基づく判断でしょうか。
 それについて語ることで、ことさら騒ぎにしたくない。戦争については非常に多様な視点がある。一方、われわれは他にたくさんの出来事について描写しなければならなかった。謝罪についてではなく一般的な意味で。歴史の認識についてあくまで率直に語る、というのがわれわれのアプローチだ。自国の当時の指導者が非常に困難な環境下で行ったことについて、後から評価を加えることはしない。あの戦争のすべての側面について語らなければならないという状況にもしたくなかった。そうすれば、戦争がどうやって始まり、この国で何が起こり、あの国では何が起こり、戦争のすべてについて語って…という演説になってしまう。

 われわれの意図はもっとシンプルだった。当時の指導者が下した決定を後から詮索しないし、戦争のあらゆる側面について説明することもしない。あくまで、この広島の地であった悲惨な出来事と得るべき教訓について語ろう。そう考えた。

  ―今後についての質問に移りたいと思います。今回長崎には行かず、もう一つの被爆地からは失望の声も聞こえてきました。来年1月までの任期中に訪問する可能性はありますか。そうでなければ、退任後にについてオバマ氏は希望を述べていますか。
 現職の間に長崎へ行くことはできない。非常に限られた時間しか残されていない。私は彼の将来のプランについては話せないが、訪問に関心を持つことは確実だ。広島訪問の際、長崎の被爆者たちの体験も包含する発言をした。われわれは長崎を訪れることができなかったが、将来の大統領は行くことを必ず考えるべきだ。

  ―オバマ大統領は「核兵器なき世界」に向けた努力をライフワークとして続けますか。あなたが一緒に取り組みを続けるのかも知りたいです。
 核兵器を巡り、政策としてどんなステップがさらに踏めるか検討している。核兵器の役割を減らし、数の削減を進めることができるか。プラハで掲げた課題は未完である。彼は退任後も核兵器の問題に引き続き大きな関心を持ち行動していくだろう。この問題に大学生のときから関心を持っていたことを思い出してほしい。上院議員としてもそうだった。

 広島に行けば核兵器なき世界への取り組みの緊急性を実感できる。自分について言うと、完全に破壊された地の真ん中に立ち、そこにいたらどうなっていたかを想像し、失われた命について考えることで、さらに取り組みを強めようという気にさせられる。それは非常に大切なことだ。この地に行きながら、(核兵器なき世界への)緊急性への意識を持たないでいることなどできない。だから私にもこの課題に取り組み続けようという意志を持たせてくれた。

 また、広島はとても美しい町でもある。訪問チームが何日か前に入り、大好きになった。そのこと自体、広島の人たちが素晴らしい街を再建したことの証しだ。

  ―広島と長崎の人はオバマ氏と2017年以降もともに努力する準備があると思いますよ。
 われわれが「障壁」を取り除くことができたことをうれしく思っている。オバマ政権の発足当初は、駐日大使すら平和記念式典に参列したことがなかった。ケリー国務長官、そして大統領が広島を訪れたことで、われわれがより自然で双方向の交流と対話の余地を広げただろうし、将来の大統領、政府関係者が広島と長崎に行くことになるだろう。ある種のハードルを乗り越えたと思っている。

  ―全体として、広島訪問をどう総括していますか。成功ですか。だとすれば、どのような意味で成功だと定義していますか。
 成功だった。一つには、「バリアー」を取り除くことができた。二つ目は、そのことが日本とアメリカの間にあった傷をふさぐ一助になった。われわれは友人であり同盟国。両国の国民の近さを感じることができる。私が個人的にあの地に立って胸を打たれたのは、日本人はとてもユニークな文化を持っており米国とかなり違う面があっても、痛みを伴う共通の体験をお互い感じ取ることができるということ。今回の訪問がわれわれをさらに近くすることを願う。

 私自身がもう一つ願うのは、米国における広島への注目がさらに高まることだ。米国人は大統領の行動にいつも注目しており、大統領が広島を訪問すればより多くの米国人が行くだろうし、長崎を訪れる人も増えるだろう。より多くの米国人に大変な経験を知ってもらい、希望を与える人たちに会ってもらう。究極的な成功は、長期的に核兵器を減らすことに注目させるとともに、紛争の平和的解決を目指すこと。そして日米両国をつなぎ続けることだ。わが国で論争を呼ぶ決定であっても、われわれは(広島に)着陸した瞬間に正しいことだったと思った。

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