『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <7> 高校教師に
19年9月3日
英語力生かし進学・就職
戦後すぐは食糧難の記憶が濃いですね。父の遺品の短剣も、ヤミ米を手に入れるために消えました。学費を稼ぐためにいろんなアルバイトをした。建設現場の肉体労働に出ると、特別に乾パンが配給されて助かった思い出があります。
米軍に沈められた軍艦があちこちにある呉湾で、艦内の物資を引き揚げる潜水士に船上から空気を送るポンプ押しのバイトもしました。
≪学制改革に伴い、呉二中を改称した真畝高(現宮原高)から三津田高に移り、広島大へ進学≫
家計のことを考え、教師になろうと教育学部に入りました。英語教員の養成課程です。高校時代から英語は得意。日曜には教会に通い、バザーなどの際に進駐軍の兵士と会話することもありました。呉の自宅から列車で東千田(広島市中区)のキャンパスへ通学しました。
母子家庭ということで、1年の途中から卒業まで授業料は免除されました。奨学金も受けられた。日本中が食べるものにも事欠く時代に、経済的に苦しい学生を支える制度がきちんとあった。豊かになったはずの今、大学進学に大変なお金がかかるのを寂しく思います。
やがて、英文学をもっと専門に学びたいという思いが募り、2年から文学部の英文学専攻に編入します。よい先生に恵まれ、勉学に打ち込むことができました。卒論は、イーディス・シットウェル(1887~1964年)について。形而上的な作風の「原子時代の三部作」などを著した英国の女性詩人です。
≪卒業後、広高(呉市)の英語教員になる≫
採用試験は、教育基本法(旧法)の「教員は全体の奉仕者」という条文について思うところを書け、というおおらかなものでした。私なりに、キリスト教神学の知識などを動員して作文したのを覚えています。
無事、教員になりましたが、年齢は生徒と4、5歳しか違いません。ホームルームの時間、生徒を連れ出して近くの神社の境内へ登り、仲良く英語の歌を歌ったりしました。人気があったと思います。卒業50年の同窓会に招いてくれるなど、ずっと慕ってくれる教え子がいるのはありがたいことです。
(2019年8月8日朝刊掲載)
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <1> 学びの道
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <2> 軍人の子
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <3> 大和の記憶
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <4> 日米開戦
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <5> 父との別れ
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <6> 焼け跡で
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <8> 研究者の道へ
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <9> ダブリン大で
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <10> 詩人の魂
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <11> ヒロシマへ
『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <12> 大学への期待