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連載・特集

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <11> ヒロシマへ

分野超える思考促す地

 広島市立大は、国際学部、情報科学部、芸術学部と、性格の異なる3学部で構成されています。各学部の専門に加え、全学共通科目で幅広い教養を身に付けた人材が育つ教育環境は、長所だと思います。

 このことは、私が所属した国際学部の長所にも重なります。私は市立大に設立の準備段階から関わりましたが、当時まだ学部に「国際」を掲げるのは一般的ではなく、何をする学部なのかといぶかしむ向きもあった。しかし、政治、経済、文化の領域をまたいで国際的、学際的に学ぶ意義を説き、推進しました。

  ≪2000年、広島市立大の第2代学長に就任。02年からの「ひろしま論」開講を主導した≫

 市長をはじめ、市の職員、地元企業の経営者などを講師に招く異色の教養科目です。被爆都市として平和の発信の在り方はもちろん、軍都としての歩み、戦後の発展、スポーツや文化の視点も含め、地域を学ぶ。今も開講されていると聞きます。

 専門的な実学への志向が強まる中、反対の声もありました。ですが、県内外から集まる学生に国際平和文化都市広島への知的関心を深めてもらうのは、市立大の使命と考えました。

 話はさかのぼりますが、私は戦時中、学徒動員されていた呉海軍工廠(こうしょう)で、原爆のきのこ雲を見ています。

 朝の点呼の時、雷が落ちるような天気でもないのに、何かが光った。しばらくしてゴオッという音。工場の機械は一時止められました。

 北西の方角に、黒い、巨大な雲が上がってきた。夕方には呉駅前で、広島から逃れてきた学生3、4人と出会いました。ひどいけがで、腕を布でつっている人もいた。おそらく、長く生きることはできなかったのではないでしょうか。

 思えば原爆も、科学と道徳を橋渡しするような人知、専門に閉じこもらない思考がいかに重要かを突き付けるように思います。

 ≪06年、学長退任と同時に退職≫

 広島大時代は呉から通勤しましたが、市立大に移って間もなく、大学の近所に新居を構え、広島市民になりました。今もすぐそばで学生、教員の活躍を見聞きし、大学の発展を祈念しています。

(2019年8月15日朝刊掲載)

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <1> 学びの道

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <2> 軍人の子

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <3> 大和の記憶

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <4> 日米開戦

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <5> 父との別れ

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <6> 焼け跡で

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <7> 高校教師に

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <8> 研究者の道へ

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <9> ダブリン大で

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <10> 詩人の魂

『生きて』 元広島市立大学長 藤本黎時さん(1932年~) <12> 大学への期待

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