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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <6> 寺の納骨堂

名前記載 眠ったまま

遺族捜し 周知課題

 石造りの納骨堂に足を踏み入れると、白い布に包まれた骨つぼや木箱がびっしりと並んでいた。約80個。「山根家」などと書かれただけのものもあるが、約60個には個人名が記されている。「この辺りが、被爆死した人たちの遺骨だと聞いています」。広島市南区皆実町の光徳寺で、僧侶の大藤(おおとう)寛通(ひろみち)さん(48)が左手の棚の上段を指した。

 光徳寺は爆心地から約2・7キロ。被爆後の混乱の中、近くの御幸橋のたもとや公園で火葬されたとみられる骨が次々と持ち込まれた。引き取り手はなく、自らも被爆時に大やけどを負った僧侶の畠山高男さん(2004年に90歳で死去)が供養を続けた。

訪れる人が減少

 畠山さん亡き後を引き継ぐ大藤さんは「昔は遺骨を捜す遺族がよく寺に来たそうですが、最近めっきり減りました。遺骨を帰してあげたいが、私たちだけの力ではどうにも…」。今後も手厚く弔っていくという。

 平和記念公園(中区)内の原爆供養塔には約7万体という遺骨が納められており、うち814体は名前などの記録がある。広島市は「名前のある遺骨」の納骨名簿を毎年夏に作成。市内各所に張り出すほか、全国の自治体にも発送。インターネットで公表している。

 一方、寺に眠る遺骨については、同じような情報提供の呼び掛けが行われていない。光徳寺の遺骨についても何かできないか―。

 「田辺キク」さんの住所は「神石郡古川町」とある。記者は、現在の神石高原町古川に出向いた。

 まず、隣の集落に住む被爆者の佐藤守(つかし)さん(90)に会った。佐藤さんは地元から広島師範学校(現広島大)予科へ進んだ翌年、15歳で被爆。町内に住む被爆者をよく知る。しかし「この辺りに『田辺』という名字は多いんですが」と首をかしげる。

 一緒に古川地区を回ってもらった。「田辺キク」の名を聞いたことのある住民には、会えなかった。

 同町の被爆者団体の会長、山本剛久さん(75)は「甲神(こうじん)部隊との関係はどうでしょうか」と語る。旧甲奴、神石2郡の40代を中心に編成され、建物疎開作業に動員中300人中9割が被爆死したとされる。ただ、部隊に女性もいたかは分からない。

 「豊田郡瀬戸田 青木長太郎」さんについても、尾道市瀬戸田町で手掛かりを探した。被爆者の梶川春登さん(92)、村上鈴江さん(97)らに記憶をたどってもらったが、有力な情報は得られなかった。

現状把握すべき

 取材を進めると、「名前のある遺骨」は光徳寺以外に市内の少なくとも2カ寺に安置されていることが分かった。遺骨が納まる場が原爆供養塔でも、そうでなくても、理不尽に命を奪われ、遺族の元に帰れずにいるのは同じ。せめて、寺の「名前のある遺骨」だけでも、もっと情報提供を募ることはできないのか。

 市原爆被害対策部調査課は「市の責任でどこまでやるか、今は答えられる材料がない。寺院ごとに供養している意味も尊重したい」という。とはいえ、現状把握はできるはずだ。

 1945年末までの広島原爆の犠牲者は、推計値で14万人±1万人。だが、原爆死没者名を積み上げる「原爆被爆者動態調査」を通して市が確認している実際の死没者数は、8万9025人にとどまる。光徳寺などの遺骨の名前も把握しているかについて、市調査課は「調べるのに時間がかかる。すぐには分からない」としている。

 遺骨と向き合うことは、確かに生きていた一人一人を悼むことであるとともに、被害の全容という「空白」を埋める営みにほかならない。(山本祐司)

(2020年2月11日朝刊掲載)

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