ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <4> 名字の手掛かり
20年2月10日
証言集に「麓」さん表記
納骨名簿と一致
原爆供養塔の納骨名簿には、広島ではあまり聞かない名字が散見される。遺族を特定する手掛かりにならないか。全国各地で刊行されてきた原爆犠牲者の遺族の手記集や、聞き書きの証言集を集めて読み込んだ。
名簿の「麓仁和子」さんと同姓同名が、1995年に東京都八王子市の「被爆体験を語り継ぐ会」が刊行した証言集にあった。麓仁一(ふもと・じんいち)さん(99年に85歳で死去)が2歳だった長女「仁和子」さんについて語っている。「思えば思うほど涙が」。人づてに聞いたという妻子ら4人の最期を、苦しい胸中とともに明かす。
仁一さんは鹿児島県の徳之島生まれ。東京に出て小学校教員を務め、妻の愛子さんとの間に41年に長男の昌能さん、43年に長女の仁和子さんを授かった。その後妻子3人は、本土空襲の激化を案じて親戚が住む鹿児島県の旧吉松村(現湧水町)に疎開した。
謝罪と後悔吐露
45年4月、米軍が沖縄本島に上陸。鹿児島への波及を恐れた仁一さんに呼び寄せられ、8月3日夜に母子は東京へ出発した。仁一さんの妹の歌子さんも一緒だった。5日、愛子さんの父が住んでいた広島市で途中下車。翌朝、頭上で原爆がさく裂した。
倒壊した家から逃げ出た4人だが、仁和子さんはその日に息を引き取り、昌能さん、歌子さんが続いた。愛子さんは救護所で15日に亡くなる前、代筆で夫に手紙を残した。「子供二人と妹を道連れにしたことは、悔しくて悔しくて堪(たま)らない。許して! 許して!」
仁一さんは証言集の中で吐露している。「ああ 俺が悪かった。東京に来いと言った俺が悪かった。許してくれ」。そして「もう、戦争は嫌だよねぇ…」。
納骨名簿によると「麓仁和子」さんの住所は「中野町」。旧吉松村の中心部に「中野」地区がある。
記者は仁一さんの次男雄二さん(65)を捜し当て、東京都調布市の自宅を訪ねた。「そうなんですか…」。事情を説明すると絶句した。
仁一さんは戦後に再婚。雄二さんら2男1女を育て、中学校長を務めた。墓誌に仁和子さんたちの名を刻み、毎月必ず墓参していたが、被爆死した妻子のことも、広島のことも、決して語らなかった。
「記者さん、行きませんか」。雄二さんに言われ、一緒に墓地へ足を運んだ。「遺骨は本人で間違いないのでは。墓前で伝えることができてよかった」。証言集の存在を、今回初めて知った。父の体験に触れることから始めたいという。
「前瓦」姓も訪ね
名字を手掛かりに、沖縄の離島にも飛んだ。
原爆資料館(広島市中区)は「前瓦清一」と彫られた表札を収蔵する。原爆で全滅した一家の遺品である。一方、納骨名簿に「前瓦俊一」の名前がある。全国の電話帳を調べると、沖縄県石垣市の白保集落にしか見つからない名字だ。
サンゴで知られる集落で、「前瓦」の表札を掲げる民家を訪ね歩いた。
「うちは広島と関係ないですよ」。前瓦貞敏さん宅で、妹貞子さん(51)が答えた。「でも…。清一と俊一ねえ…」。沖縄や南太平洋のソロモン諸島で清二さん、秀一さんたち伯父3人が戦死したと聞いている。遺骨は不明のままだ。
秀一さんらを知る親戚の前瓦実さん(82)もやはり、原爆に遭った前瓦さんについては「知らない」。ただ、何か分かれば連絡すると約束してくれた。
「戦争は、ひどいことばかりさ」。別れ際の実さんの言葉が、仁一さんの「もう、戦争は嫌だよねぇ…」と重なった。遺族が遺骨を手にできないのは、広島だけではない。(水川恭輔)
(2020年2月8日朝刊掲載)
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