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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <7> 子守り地蔵

小さな「かけら」供養

児童たち 境内で犠牲

 平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔に眠る約7万体とされる遺骨の多くは、身元不明だったり、大量の骨片として保管されていたりする。広島市内外にある寺も同じだ。「大きな箱5杯分」「粉のようになった骨」―。買い物客や観光客でにぎわう市中心部にも、名もなき遺骨が眠る。

20人通う分教場

 「とうかさん」の名で親しまれる中区三川町の円隆寺。本堂裏側の墓地に「子守り地蔵」がひっそりと立っている。東隣は広島県最大の歓楽街、流川だ。1945年当時は竹屋国民学校(現竹屋小)と袋町国民学校(現袋町小)の分教場で、1、2年生約20人が通っていた。爆心地から約1キロ。猛火に襲われ多くが命を失った。

 当時の住職の長女、松岡由子さん(87)=赤磐市=によると「本堂辺りに小さなかけらのような骨がぽつん、ぽつんとあったんです。誰の骨かも分からない。つまむと灰のようにもろかった」。丁寧に瓦の上に乗せ、境内の隅に埋めた。目印に石を置いた。

 比治山高等女学校(現比治山女子中・高)1年で12歳だった松岡さん自身は広島を離れており無事で、2日後に変わり果てた境内に立った。「児童の親も被爆死してしまい、遺骨を捜してもらえなかったのでしょう」。焼け跡に木製の碑を立て、後に地蔵を据えた。

 袋町国民学校1年だった大地(おおち)武さん(98年に59歳で死去)は、妻晁子(あさこ)さん(77)=広島県熊野町=に「助かったのは、水を飲みに本堂から出ていた3人だけ」と証言していた。「一緒に勉強した仲間なんじゃ」。晁子さんを連れて、毎年お盆の時期に円隆寺へ通った。

 大塚映子さん(84)=安佐北区=は、竹屋国民学校2年だった弟の久世(くぜ)嘉孝さんを失った。取材に応じたことで、子守り地蔵を初めて知った。円隆寺に、他の犠牲者と一緒になって肉親の遺骨が眠っているかもしれない―。記者の前で涙を流した。

 45年春のある朝、大塚さんは学童疎開のため自宅を出て同県加計町(現安芸太田町)へ出発することになっていた。まだ寝床でまどろんでいると、姉を恋しがる嘉孝さんが布団に入ってじゃれて、顔中に口づけしてきた。「嘉孝の唇の柔らかくて温かい感触が忘れられない」

 8月6日が過ぎても、両親は疎開先に一向に現れない。秋になり、親戚が迎えに来てくれた。京都に住む祖父の家で、両親の遺骨と対面した。嘉孝さんの遺骨はなかった。

 嘉孝さんが円隆寺で命を落としたであろうことは想像が付く。行けば、つらくなる。境内にも、初夏の「とうかさん大祭」にも足を運んだことはない。弟は原爆供養塔にいると信じ、大塚さんは原爆の日に出向いて「たくさんの人に参ってもらい、花も供えられてよかったね」と語りかけてきた。

 「子守り地蔵に一緒に行きませんか」と話すと、しばらく沈黙した後「やはり、行くとつらくなる」と声を落とした。

2県11ヵ所にも

 身元不明で、遺族との縁を取り戻せないままの遺骨。取材で分かっただけで、長覚寺(安佐北区)の推定十数体など、広島、山口両県の11カ所にあった。私たちがその存在を忘れないことが、原爆の悲惨を後の世代に伝えていくという誓いになるのではないか。

 円隆寺の住職の妻の中谷信子さん(65)と副住職の長男康韻(こういん)さん(36)は昨年末、子どもたちの犠牲について伝える説明板を、子守り地蔵の傍らに設置。たくさんの参拝者に手を合わせてもらいたいという。「大事に守り続けます」(山本祐司)

(2020年2月12日朝刊掲載)

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