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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 帰れぬ遺骨 <8> 似島の土の下

1人で発掘「まだある」

「金輪島も」 望む声

 広島港(広島市南区)からフェリーで約20分の似島(同)。広島大大学院生の嘉陽礼文さん(41)は、島の北西部の空き地でスコップを手に取り、黙々と土をかき出した。その土を手でかき分け、白いかけらを見つけると記者に示し、「骨かなあ」とつぶやいた。

 原爆犠牲者の遺体が土葬された、と島民が証言している場所だという。市は調査していない区域。地権者を説得して許可を得て、2018年から休日ごとに島へ通い、1人で遺骨を捜している。これまで約100片を収集。一部を広島県警が鑑定し、人骨と特定した。地層の深さからも、被爆当時とみられる。

 「似島には、遺骨がまだ埋まっているんです」。嘉陽さんは沖縄県出身。沖縄戦で犠牲となった親戚の遺骨が不明のままだ。原爆犠牲者の遺族のことが「人ごとと思えない」と語る。

推定「1万人」

 8月6日から20日間で推定「1万人」―(「広島原爆戦災誌」)。75年前、この島におびただしい数の被爆者が収容され、葬られた。遺骨の多くは遺族の元に返されていない。

 似島は、1894年に始まった日清戦争、次いで日露戦争で宇品港(現広島港)が兵員輸送の一大拠点になって以来、「軍都」広島を象徴する島だった。陸軍第二検疫所は被爆直後、負傷者を収容する臨時野戦病院に。5千人分の薬の備蓄があったというが、すぐ底を突き多くが息絶えた。

 戦災誌によると、まとめて遺体を火葬しても追いつかず、穴を掘って60~80体ずつを土葬したり、防空壕(ごう)に担ぎ込んだりしたという。沢井淳子さん(79)=東区=は、被爆死した姉の井原伸子さん=当時(13)=について語る。「母が『臨時陸軍検疫所似島支部』と記された封筒を受け取ってきました。中は遺髪だけでした」

 戦後、似島に供養塔が建てられた。1955年、平和記念公園(中区)に原爆供養塔が建立されると、約2千体分の遺骨が移された。それ以降、市は似島での遺骨発掘を3回実施。70年代には陸軍馬匹(ばひつ)検疫所の跡から推定617体が見つかり、そばにあった定期入れの名前などを手掛かりに7体が遺族に返された。

 2004年調査では推定85体を確認した。市原爆被害対策部調査課は「過去の調査より少なかった。新たな発掘は考えていない」とする。

 一方、嘉陽さんは「遺骨との対面を望む遺族もいる。行政がやらないのなら自分で」と強調する。手弁当の作業は困難を伴う。18年7月、西日本豪雨で島は甚大な被害を受け、嘉陽さんの発掘現場にも大量の土砂が押し寄せた。作業は一時中断。それでも「土の下に眠る犠牲者の悔しさに応えたい」との意思は固い。

政府方針は?

 広島港がある宇品地区から沖合約1キロの金輪島にも、負傷者が運ばれた。広島原爆戦災誌によると、陸軍運輸部のドックに約500人が収容され、多くが死亡。1952年、海岸の山腹に埋められたとみられる29人の遺骨が見つかった。

 「父の遺骨が眠っているかもしれない」。田辺芳郎さん(82)=西区=は長年、金輪島での慰霊祭に携わっている。父次郎さん=当時(52)=が島に運ばれ、亡くなったと人づてに聞いた。慰霊碑は98年に田辺さんの兄が中心となって建てた。「金輪島でも収集してほしい。広島で起こった事実を語り伝えていくためにも」

 広島では過去に市が、現在は嘉陽さんのような個人が原爆犠牲者の遺骨を掘り起こしている。遺骨といえば、海外の戦没者については日本政府が行っており、「取り違え」や「DNA型鑑定」などのニュースがよく報じられている。原爆犠牲者に関する政府方針は、どうなっているのだろうか。(山下美波)

(2020年2月13日朝刊掲載)

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