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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第2部 島陰の戦争 <1> 声を届ける

毒ガスの恐ろしさ 今も

医療手当拡充 国に要望

 昨年11月、霞が関(東京)の財務省庁舎の一室に、竹原市から訪れた高齢の3人の姿があった。かつて大久野島(竹原市忠海町)にあった旧陸軍の毒ガス工場で製造や運搬、戦後の廃棄処理などに当たり、健康被害を負った人たち。医療手当の拡充などを求める要望活動のため、早朝に自宅をたった。

 伊勢本学さん(84)、坂光良人さん(90)、三好清夫さん(88)。八つある被害者団体のうち、3団体の会長をそれぞれ務める。対面した同省給与共済課の斎須朋之課長は「国の財政状況は厳しいが、引き続き最善の検討をする」と説明した。

後遺症に苦しむ

 要望活動は8団体と竹原市など8市1町でつくる大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会によるもので、約50年前から毎年のように続けてきた。一行は厚生労働省なども巡り、要望を重ねた。

 大久野島では1929年から終戦間際の44年まで、毒ガスが製造された。皮膚や呼吸器に激しい炎症を起こすイペリットやルイサイトなど。従事した工員や動員学徒は、戦後処理も含めて7千人を超えるとみられ、気管支炎などの後遺症に苦しんだ。

元工員らが団体

 52年、広島県立医科大(現広島大)による健康診断で工場作業との関連が裏付けられると、国に支援を求める声が高まる。同年、主に元工員でつくる大久野島毒ガス傷害者互助会が発足。元動員学徒の会や居住地ごとの団体も相次いで結成され、67年に自治体も含めた連絡協議会ができた。

 今回の要望団の一人、坂光さんは、12年前から大久野島毒ガス障害者厚生会の会長を務める。戦時中、島には養成工として3カ月通った。「船から降り立った時に感じた独特な臭いを、今も覚えている」。工場の存在を口外することは固く禁じられ、対岸を走る列車の窓にはよろい戸が下ろされていた。

 戦後、市内の忠海病院(現呉共済病院忠海分院)には、後遺症に苦しむ多くの患者が入通院した。坂光さんも慢性気管支炎を患い、定期的な健康診断は欠かせない。

 要望活動で地道に被害者の声を届け続けることで、医療手当は徐々に拡充。当初は対象外だった元学徒への支給を勝ち取るなどした。「今も毎年声を上げるのは、国に化学兵器の恐ろしさを伝え続けるため」と坂光さん。その信念は、かつて機密のベールに覆われた島の歴史を伝え続ける意思とも重なる。(山田祐)

    ◇

 芸南地区の島々には、軍事上の秘匿性を帯びた施設も含め、かつての戦争のさまざまな痕跡が残る。島陰に刻まれた戦争の歴史を見つめ、次代へ語り継ぎ、遺構や資料の保存に尽力する人々の取り組みを追う。

(2020年5月2日朝刊掲載)

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