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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第2部 島陰の戦争 <3> 消せない歴史

覚えた化学式 今も鮮明

依頼ある限り 記憶語る覚悟

 「かっこのCH、CL、点が二つ…」。今でもすらすらと口をついて出る。毒ガスのルイサイトの製造に当たり、暗記した化学方程式だ。藤本安馬さん(93)=三原市=にとって、この記憶こそが「加害の歴史を伝えるための大切な証拠」なのだと言う。

 現在の竹原市吉名町、旧吉名村の農家に生まれた藤本さん。尋常高等小の卒業前、担任から「お金をもらいながら学べる」と勧められたのがきっかけで、大久野島(竹原市忠海町)の陸軍技能者養成所に入った。1941年4月。14歳で毒ガス製造の現場に加わった。

「A3工室」配属

 化学式を頭に詰め込むため、ノートに繰り返し書きなぐった。試験前には寮で徹夜の勉強も繰り返した。2年半で繰り上げ卒業し、ルイサイトを製造する「A3工室」に配属された。44年に京都に転属するまで従事した。

 小学校の教員から依頼を受けたのをきっかけに若い世代への証言を始めたのは、戦後約40年を経てから。今も年7、8回のペースで続けている。

 ただ、大久野島の被害者の平均年齢は90歳を超え、藤本さんのように証言活動を続けている例は少ない。定期的に依頼を受けているのは藤本さんを含めて2、3人ほどという。

 その証言活動を懸命に支えているのが、竹原市の市民団体「毒ガス島歴史研究所」だ。毒ガス資料館の初代館長、故村上初一さんがつくったグループ。中心メンバーの山内正之事務局長(75)は証言者の紹介に加え、自らも、被害者の体験談を基にした講話や島の案内などを年に約40回こなす。

企画展700人来場

 戦後75年を迎えたことしの1月、初めて広島市内での企画展を主催した。被爆建物の旧日本銀行広島支店(中区)で6日間、毒ガス製造に使われた器具の一部や写真などを展示。「竹原以外での展示は初めての試みだったが、知られるべき史実をより広く届けることができた」と山内さん。約700人が訪れた。

 期間中、藤本さんの講演もあり、約100人が聴講した。藤本さんは「たとえ5人だろうと1人だろうと、依頼があれば駆け付けたい。負の歴史を伝え続けることは、必ず平和につながるから」と語る。かつて機密保持のため「地図から消された」島。その歴史が忘れ去られないよう、命の限り語り続ける覚悟でいる。(山田祐)

(2020年5月7日朝刊掲載)

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第2部 島陰の戦争 <1> 声を届ける

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第2部 島陰の戦争 <2> 加害を見つめる

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第2部 島陰の戦争 <4> 生きた証し

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第2部 島陰の戦争 <5> 文化遺産として

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