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世界のヒバクシャ

特集1: 水爆搭載機 グリーンランド墜落の後遺症

第1章 アメリカ

 1968年1月21日、デンマーク領グリーンランド北西の米空軍ツーレ基地そばの氷上に、水爆4個を搭載したB52戦略爆撃機が墜落した。墜落のショックで水爆の引き金となる通常火薬が爆発。水爆と機体は、バラバラになって飛び散り、周囲はプルトニウムなどの放射性物質で広範囲に汚染された。事故から20年余りを経た今、汚染物質の除去作業などに従事した基地駐留のデンマーク人労働者の間に皮膚障害などの後遺症が増えている。だが、国民からは半ば忘れられ、米政府はもちろん、自国政府も被曝との因果関係を認めず、被害者家族は孤立感を深めていた。

増える後遺症、被害認めぬ政府

 被害者のリーダーであるオール・マークセンさん(50)を、コペンハーゲン郊外のアパートに訪ねた。妻のサリーさん(41)の介護なしでは生活できないほど体調を崩している彼は、事故の模様をゆっくりとした口調で話した。

 「兵舎でうたたねしていたら、ドーンというものすごい音で目が覚めた。外へ飛び出すと、真っ暗やみの中で火柱がはるか上空まで上がっていた」。 オールさんは兵舎に引き返し、ラジオのスイッチを入れた。30分ほどして飛行機事故のニュースが流れたが、水爆のことなど一切触れなかったという。

 事故の発生は午後5時40分だった。北極圏に位置するグリーンランドの冬は1日中暗い。その暗闇の中をトラック運転手ら数人が、事故機の乗員救助に出動したが、オールさんらは部屋に残った。

 しかし、約6時間後に始まった猛吹雪で、基地の西12キロの事故現場から、放射性物質に汚染された雪が、換気口を通って兵舎内に吹き込んだ。「あの時、プルトニウムなどの危険な物質を体内に吸い込んだのは間違いない。プルトニウムやアメリシウム、トリチウムといった放射性物質が、どれだけまき散らされたか、米軍はいまだに公表していない。そんなこと許されると思うかね」と、オールさんは体を震わせて言った。

 爆弾や機体の破片など汚染物質の除去作業は1カ月余りで終わった。だが、基地周辺の75平方キロに及ぶ雪や氷の除去は、太陽が顔をのぞかせ始める春まで手はつけられなかった。雪と氷の除去は3月に入ってやっと本格的に始まり、4月まで続けられた。

両足が黒ずみはれる

 この間、デンマーク人労働者は米兵とともに破片の除去や、汚染された大型機械の補修などに従事した。輸送部門の労務担当をしていたオールさんは、直接、除染作業にかかわってはいないが、大型機械の修理工場に毎日のように通っていたという。

 彼が、米軍と契約しているデンマークの建設会社の要員としてツーレ基地へ赴任したのは1966年。「サラリーは本国の3倍以上あったし、税金は免除。それにひかれて行ったんだ。でも、こんなことになるんだったら」と、ツーレに行ったことを今は悔やむ。

 だだ、オールさんは事故から4年余りツーレ基地に勤務したが、特に体の異常はなかった。体調の異変に気づいたのは、1980年の初めだった。「両足の皮膚が黒ずんで、はれてきたの」。19年間生活を共にするサリーさんが夫に代わって説明した。「医者に行ってもなぜこうなったのか、よく分からないのよ」

 オールさんは、そのころからすぐに疲れを覚えるようになり、1984年に勤務先で倒れた。脳出血だった。その後8回の入退院を繰り返し、今では体のバランスがとれず、左足のひざから下はまひ状態。話すのも不自由になってきていた。

 ツーレ基地時代の友人数人が、同じような症状で苦しんでいることを知っていた夫妻は、1986年2月、テレビを通じて「核事故による被曝の影響」を視聴者に訴えた。基地で働いていた仲間に連絡を呼びかけ、政府に実態調査を要求した。

400人の仲間から連絡

 反響は大きかった。「これまでに、夫を亡くした人たちを含め400人近くが電話や手紙で連絡してきたの。皮膚障害やがん、平衡感覚の喪失、精神障害など、苦しんでいる人が想像以上に多いことが分かったわ」とサリーさんは言った。

 回収された放射性物質が、基地から最後に運び出されたのは1968年9月17日。事故当日からこの間、ツーレ基地で働いたデンマーク人は1,202人にのぼる。このうち1989年7月までに214人が亡くなった。今年の死者14人のうち6人の死因はがんだった。

 5,60代の年齢で次々と命を奪われる現実に、マークセン夫妻は言い知れぬ恐怖と憤りを覚える。

帰郷の夫 手足に班点 生まれた4児に異常

 オール・マークセンさんの知り合いで、障害を持つ4人の娘を残して4年前に43歳で亡くなったというアーリン・フックステッドさんの妻マヤさん(44)とは、コペンハーゲン市内のホテルで会った。

 「何から話せばいいのかしら」。彼女のしなやかにカールしたブロンズヘアが揺れた。その美しさとは裏腹に体はやせ細り、表情には日々の苦労がにじみ出ていた。

 「夫のアーリンと結婚したのは1972年。彼がツーレ基地から帰って間もなくよ」。この時、彼の両手足には、うっすらと赤や紫色の班点があったという。アーリンさんが、ツーレ基地で働いたのは事故直前の1968年1月から72年4月まで。「電気技士だったんだけど、実際にどんな仕事をしていたのか夫はほとんど話さなかったわ」

 1973年に最初の子供が生まれた。普通の子供より足が極端に短く、目に異常があった。4年後に生まれた2番目の子供は、1歳の誕生日の後に心臓発作に襲われ、脳障害を併発した。1981、82年と続いて生まれた子供も心臓や足に障害がある。

最期まで真相語らず

 一方、アーリンさんの体調は年とともに悪化。小さな傷でもなかなか血が止まらず、全身に激しい痛みを覚えるようになって、7年前の1982年に退職した。障害者手当が唯一の頼りというギリギリの生活。このころになって初めて、夫がツーレにいた時のことを口にした。

 「ツーレで危険な火災があった」「基地の医者は、子供を生まない方がいいかもしれない、と言っていた」。夫の言葉の意味を理解しかねたマヤさんは、しつこく尋ねた。が、彼はそれ以上、何も話そうとしなかった。

マヤさんが夫の死と放射線被曝を結びつけて考え始めたのは、オール・マークセンさんから便りをもらったのがきっかけだった。彼女はそれまでツーレ基地の事故が放射線に関係があるなど、全く知らなかったのだ。だが、手紙を受け取った時、アーリンさんはすでに亡くなっていた。1985年1月だった。最後は痛み止めのモルヒネを打ち続けていた。

 彼女は放射線の影響について詳しい知識があるわけではない。しかし、もし事故のことを知っていたら? そう聞くと「たぶん、子供は生まなかったでしょうね…」と弱々しく答えた。

 現在は両親から経済援助を受けながらぎりぎりの生活をしている。別れ際にマヤさんは怒りを抑えるように言った。「政府はあの事故の被害者対策を、外交ルートを通じて米国に要求すべきよ。もしそれをしないのなら、政府自身が救済措置をとってほしい」と。

「皮膚疾患、やや多い」と専門医

 デンマーク第2の都市オーフス市。この街にある国立マースリスボーグ病院を訪ね、ヒュー・セカリアー皮膚科部長(63)にインタビューした。彼は1980年から、水爆搭載機の墜落事故時にツーレ基地で働いていた27人の患者を診ていた。

 「患者には足の裏や手、腕などに湿疹(しっしん)ができたり、皮膚にかび状のひび割れができる患者が多い。うち2人は皮膚がんだ」

 セカリアー医師の説明によると、患者の1人は事故当日、現場近くで働き、約1カ月間、機体の破片を集める作業をした。この患者はその間に6、7回、放射能に汚染された衣類を捨てるように指示された。ほかにも4人が直接、汚染除去作業に携わっていたという。

 「事故で飛び散ったプルトニウムの量や被曝線量のデータが乏しいので、彼らの皮膚病が放射線と関係があるかどうか断定はできない。しかし、皮膚疾患について言えば、ツーレ基地の元労働者はほかと比べて、やや多いかもしれない」。セカリアー医師は慎重に言葉を選びながら言った。

 社会福祉制度の発達したデンマークでは、医師はすべて国家公務員。病院もすべて国の運営である。医学発展の研究予算の使い道はデンマーク医学研究協議会で決められる。彼もメンバーの1人である。

 「個人的には、被曝した可能性のあるツーレ基地労働者1,202人の医学的追跡調査を、きっちりやるべきだと思う。しかし、調査のためには少なくとも1千万クローネ(2億円)が必要だ。研究予算の6分の1となると、協議会としても二の足を踏んでしまう」と、セカリアー医師の口調は重い。

 あの事故の後、回収された水爆や機体の破片は、大きな金属容器217個分に詰められた。汚染された雪と氷は10万リットル・タンク67個分に達し、米軍はそれらをすべて米本土へ運んだ。米国政府は、デンマーク人労働者の放射線被害を認めてはいない。デンマーク政府もまた「ツーレ基地の水爆搭載機墜落事故による放射線被害はない」と言い続けている。