×

世界のヒバクシャ

3. ハンフォードの放射線被害者

第1章: アメリカ
第1部: 秘密の平原ハンフォード

3年前事実を知る

今年2月下旬、首都ワシントンで、下院エネルギー通商委員会の「放射能汚染に関する公聴会」が開かれ、1人の主婦が証言台に立った。カリフォルニア州オークランドからやってきたジュン・ケーシーさん(58)。

 「私の体は、ハンフォード核工場が排出した放射能に侵され続けてきました。でも、この事実を知ったのはつい3年前。信じていた政府にだまされ続けた憤りを禁じ得ません」。物静かな感じの中流婦人の口をついて出る厳しい言葉に、会場は静まり返った。

 この証言から2カ月余、彼女の憤りに追い打ちをかけるニュースが伝えられた。カレン・スチール記者(45)がすっぱ抜いた、あの1949年12月の放射能放出実験「グリーン・ラン」である。ケーシーさんの視線は、その記事の「1949年」という活字に、くぎづけになった。

 オレゴン州ポートランド育ちの彼女は、その年の秋、ワシントン州ワラワラのホイットマン・カレッジに入学した。赤レンガにツタが茂る西海岸の名門校に学ぶ喜びもつかの間、クリスマス前後から、自慢のブラウンヘアが抜け落ち始めた。

つらかった娘時代

 不安になって訪ねた医師は「勉強のしすぎでは」と笑った。2年間首席を通して卒業するころ、髪はほとんどなくなっていた。「鏡を見るのが怖くて…」と、つらかった娘時代の胸の内を語る。

 母にかつらをつくってもらい、教師の道を歩き始める。「ちょうどそのころよ、寄宿舎で同室だった先輩に、片腕の子供が生まれたって聞いたのは」。ほどなく結婚。2度の流産の末、男の子が生まれた。それを機に家庭に入り、高校の校長を務める夫(52)と平穏な家庭を築いてきた。

 そのケーシーさんの目に留まった1つの新聞記事。「ハンフォード核工場が、1944年から13年間に53万キュリーの放射性ヨウ素を放出…」。世界の目がチェルノブイリ原発事故に注がれていた時だった。「忘れもしないわ。1986年5月11日の『母の日』のことよ」

 思いもよらぬ「プレゼント」だった。「チェルノブイリに匹敵する放射能汚染がハンフォードでも」という解説が彼女の胸に突き刺さった。

「政府の責任重い」

 脱毛、流産、そして先輩に生まれた奇形児…。この40年近くの間に自らが体験したり、身辺で起きた異常の一つ一つが、ハンフォードの放射能汚染と奇妙に符号する。とりわけ、脱毛が始まった時期は、「グリーン・ラン」実験でひそかに放射能が放出された3週間余り後のこと。しかも、当時学んでいたカレッジは、ハンフォード核工場の南東80キロ。エネルギー省の秘密報告によると、ヨウ素131の拡散地域に含まれる。

 「調べてみると、ヨウ素131は甲状腺の異常や流産、奇形出産の原因にもなるのね。それを知って一層、自分の体に放射能を感じたわ」。ケーシーさんは、自宅近くに核被害者救済組織「全国放射線被曝者協会」(NARS)があるのを知って会員になった。NARSが収集した膨大な核被害の資料で見た広島・長崎の原爆、ビキニやネバダの核実験…。疑問はますます膨らむ。

 「ハンフォードの被害がはっきりするのはこれからよ。隠し続けた政府の責任は重いわ」。一主婦から核告発者に、ケーシーさんは変わり始めている。

結局、手遅れだった

 見るからにけだるそうに、マイル・スミスさん(42)=ワシントン州オリンピア=は、長いすに体をあずけていた。胸から腹にかけて、がんの病巣が広がっている。「もう少し早く、ハンフォードの放射能汚染を知っていたら…」。感情を抑えながら、か細い声で話し始めた。

 「大量の放射能が放出された」という事実を知ったのは、やはり3年前の春先。シアトルの新聞記事からだった。その時はピンとこなかった。直後にソ連チェルノブイリの原発事故。「聞けばチェルノブイリもハンフォードも同じだって言うでしょ」。テレビに映るソ連の被曝者の姿が自分と重なって見えた。

 どうやってもぬぐえない疲労感。「もしや自分も放射能に?」。不安を胸に病院を訪ねた。医師の顔が曇る。「一応、胸の病巣を取り除きますが…」。あとはうつろだった。「結局、手遅れだったの」と両手で顔を覆った。

 第2次世界大戦の終結から2年後の1947年、スミスさんはパスコで生まれた。原爆用のプルトニウム製造工場、ハンフォードの南隣の町だ。

級友らも同じ症状

 体の異常を覚え始めたのは高校時代、16歳のころ。気分が悪くなって、体操もできない。「甲状腺(せん)の機能障害」と医師に言われて、しばらく数種類の薬を飲み続けた。

 シアトルに出て、結婚。一児の母になった。「でも体調は相変わらず。気力がわいてこないのよ。まさか放射線に侵されているなんて思わないでしょ。自分の体はこんなもんだと、もうあきらめていたの」

 「新聞で放射性物質放出の事実を知って、パスコの高校時代の同級生に手紙を書いたの。健康状態を調べるために」。返事があった48人中、25人までが甲状腺の異常を持っていた。さらに9人が白血病やがんで既に亡くなっていた。

 苦しんでいたのはスミスさんだけではなかったのだ。「同じ町で育った級友の多くが、同じような病気に…。素人の目で見たって普通じゃない。何か共通の原因があるはずなのよ」。顔をこわばらせた彼女は「元凶はハンフォードの『死の灰』しか考えられない」と言い切った。

政府の姿勢に怒り

 ハンフォード核工場から大気中に漏れた放射性物質で最も多いのは、ヨウ素131。人体に入ると甲状腺に集まり、ホルモンの分泌を阻害したり、がんを誘発する。特に幼児期から思春期までの影響が大きい。核工場が大量の放射能を放出した1957年ごろまでと、スミスさんらの発育盛りの時期とは、ぴったり重なる。

 「危険な物質を大量にばらまいて、しかも、その影響が分かっていながら、長い間ひた隠しにしていたなんて」-。彼女はそんな政府の姿勢に強い疑問を抱き続ける。

 「国防上の秘密というのはある程度理解できる」とスミスさん。だが、国防と住民の健康とは次元の違う話。「放射線を浴びたことが、もう少し早く分かっていれば、検査も受け、病気の発見も早く、十分な治療も受けられたはずよ。政府の秘密主義が、私の命を奪い取ろうとしているんだわ」

 政府が、スミスさんらハンフォード周辺の住民に対して犯した二重、三重の罪。「私は、そんな政府を絶対に許さないわ」。弱った自分の体に言い聞かせるように、彼女は「許さない」を繰り返した。