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世界のヒバクシャ

4. 失業恐れ口閉ざす「核城下町」

第1章: アメリカ
第1部: 秘密の平原ハンフォード

リッチな町に変身

 岩と土ばかりの核工場とは打って変わって、緑豊かな住宅街が、ハンフォードの南にある。リッチランド、パスコ、ケネウィック。3つ合わせて「トライシティー」と呼ぶ。人口1万人。戦前、小さな駅があっただけの村が、核工場の建設とともに、全米屈指のリッチな町に変わった。「核」が人を引きつけ、所得を高めた。いわば「核城下町」である。

 このトライシティーで、核工場の放射能被害について語ってくれる人を捜すのは、容易でなかった。「そんなことを聞いてどうする?」「病気?だれだってかかるもんさ」。話しかけても、そっけない言葉が返ってくるばかりだった。

 ケネウィックを歩き回っていて、ある家族に出会った。「ここに住む私たちは、何も話せない。シアトルに行けば娘が自分たちの代弁をしてくれるから…」。言葉のままに、シアトルの高台に住む女性を訪ねた。短大のデザイン教授、ジュディス・ジャージーさん(44)。「家族の住所、名前は一切内証よ」と念押しして、取材に応じてくれた。

 一家がカリフォルニアからトライシティーに移ったのは1949年。溶接工の父(69)が、ハンフォードの核工場増設に携わるためだった。ちょうど、ソ連の原爆製造情報を確認するため、冷却期間の短い核燃料の放射能を放出する実験「グリーン・ラン」が行われた年である。

妹らも甲状腺障害

 高校卒業と同時にトライシティーからシアトルへ出た彼女が、ハンフォードの核汚染を知ったのは、1987年。教え子から聞いた。「念のため」と医師にかかると、案の定「甲状腺(せん)が悪い」。教壇に立つのもつらいほどの不調の原因が初めて分かった。

 彼女だけではない。ケネウィックに残っている母、妹ら6人の肉親が「甲状腺障害」と診断され、父も心臓疾患をもつ病気一家である。

 実家に帰った時、ジャージーさんは、シアトルで聞いた「核工場の放射能放出」を家族に話した。「町の新聞にも載らない。初耳」と家中びっくり。だが姉がすぐ言った。「この町では絶対、そのことをしゃべっちゃだめよ」と。

 「トライシティーでは核工場の批判めいたことなんて何も言えないの。うっかり口にしたら、どうなるかみんな知っているのよ」―姉の口止めの理由を彼女はこう説明した。住民のほとんどが何らかの形で核工場にかかわりを持つ。もし内部告発でもしようものなら、仕事を追われるし、どんな仕打ちを受けるかわからない、というのだ。

 2年前の夏、「原爆のきのこ雲を高校の校章に使った」と日本で大きく報道されたのも、実はこのトライシティーでの出来事だった。

被害者支援に奔走

 「核工場あっての町」という住民意識が、閉鎖的な空気につながっている。と同時に、核開発競争で、常にソ連を意識してきた歴史が、住民を反ソ、反共に駆り立てたのも確かである。だが、ここに来てジャージーさんは「そんな町の雰囲気が、政府の秘密主義を許し、住民の健康破壊を招いた」と考え始めた。「トライシティーで自由に発言できるように、外にいる私たちが立ち上がらなくては…」

 被害者の組織づくりに奔走する彼女は、甲状腺障害やがんに苦しむ核工場周辺被害者を、シアトルだけで70人、捜し出した。初めての被害者大会がこの5月、スポケーンで開かれた。「44年にしてやっと、私の心が広島・長崎とつながったのよ」。感動をこめて、彼女は言った。