2. 閉山、大量の廃棄物を放置
13年1月1日
第1章: アメリカ
第3部: ウラン採掘の村
第3部: ウラン採掘の村
突然、測定器騒ぐ
ニューメキシコ、アリゾナ、コロラド、ユタの4州が交わる「フォーコーナー」。その中心の町、シップロックで、ナバホ先住民の1人ペリー・チャーリーさん(38)に会った。彼は岩と砂の幻想的な自然の中で、ウラン鉱山跡の放射能汚染を調べ続ける。
「こんなところに放射能が?」
「オレもそう思いたいが、ひどいもんだよ」
こんな会話を交わしながら彼は州境をまたぎ、30キロほど車を走らせてアリゾナのツセタ村へ案内してくれた。幹線を外れて、岩ばかりの山道に乗り入れる。揺れながら登り続け、やがて標高2千メートルの山の中腹へ着いた。車から降り立つと山肌のあちこちに、直径2、3メートルの穴が見えた。
チャーリーさんがガイガーカウンターを手にゆっくりと歩く。周りには板切れのように平らな石が、無造作に積んである。穴の入り口に近づくと突然「ピー、ピー」と測定器が騒ぎ始めた。針は15マイクロレントゲンを指した。さらに進み、黄色い粉をまぶしたような石のそばに立つと250マイクロレントゲンまで振れた。
176カ所の穴を確認
「たまに歩き回るくらいなら平気さ。でも年中いたら大変だよ」と、チャーリーさんが言った。先を行く彼の前に、木の囲いをした穴が見えた。廃坑を小屋代わりにして、羊を飼っているという。
坑道は150~200メートル続き、ウラン鉱石を掘ったその穴には今も、ラドンガスが充満している。1988年10月に始まった廃坑調査で、チャーリーさんは176の穴を確認した。エネルギー省への登録数30カ所の5倍以上である。「フォーコーナー全域では、いくつになることやら」と彼はため息をついた。
フォーコーナー一帯は、もともと焼き物のうわぐすり用にラジウムを採掘していた。それが1940年代の終わりごろから一変する。1949年にソ連が原爆実験に成功して、核軍拡競争が激化した。血まなこでウラン鉱脈を求め、探り当てたのが、ナバホ先住民居留地の真っただ中、フォーコーナーだった。
一帯は、時ならぬウランラッシュにわいた。鉱山業者は手当たり次第にウラン鉱石を堀りまくり、近くに建設された7カ所の精錬所へ運び込んだ。ピーク時、フォーコーナーは、当時製造された核爆弾の25パーセントに相当するウランを産出したといわれる。ところが、1970年代に入って国際価格が急落すると、フォーコーナーは競争力を失って、次々と閉山していった。
白人の村だったら
後に残ったのが、無数の廃坑と大量の廃棄物。ほとんどの鉱山が、ツセタ村と同じように、放射能対策を講じることもないまま、放置された。
ツセタ村の場合、ナバホ先住民の27世帯が、羊や牛馬を放牧しながら、山すそに暮らしている。風が吹けば、廃坑の周りの放射性物質を含んだ粉じんが、集落に舞い落ちる。飲み水は、鉱山跡の山からのわき水が唯一の頼りだ。
「私たちは放射能のことなど何も分からないまま生きてきた。自分の体も心配だが、子供や生まれてくる孫は大丈夫だろうか」。10人の子供を育てたフランシス・クラーさん(53)は、牛を追いながら困惑の表情を見せた。
今後チャーリーさんらの調査をもとに、廃坑の汚染除去事業が始まる予定だ。しかし廃坑があまりにも多く、除去にどれだけの年月がかかるか見当もつかない。
「これがもし白人の村だったら、もっと早く手がつけられただろう。オレたちは昔も今も虫けら同然なのかねえ」。こう言うチャーリーさんのひげをたくわえた顔がこわばっていた。