3. 安全対策ないまま坑内へ
13年1月1日
第1章: アメリカ
第3部: ウラン採掘の村
第3部: ウラン採掘の村
一日中穴ぐらで仕事
ナバホ居留地のウラン鉱山跡へ案内してくれたペリー・チャーリーさん(38)が、廃坑の汚染調査に執念を燃やす背景には、父親の死という痛恨の過去があった。鉱山を恨んでも恨みきれないというのだ。父ハリスさんは3年前の1986年、胸を病んで亡くなった。65歳だった。
ニューメキシコ州ベクラビット村の自宅で、ハリスさんの遺影を見せてもらった。カウボーイハットが似合う、屈強な体格をした人物である。「病床に就いてからはやせ細って…。主人は鉱山に殺されたようなものよ」と言って、妻のサラーさん(65)は、写真の夫をいとおしんだ。
海軍で負傷したハリスさんが帰郷したころ、村の周りの岩山で、ウランの採掘が始まっていた。1948年、第二次世界大戦が終わって3年後のことである。これといった産業もない村だったため、男たちはわれ先に鉱山へ入って行った。8人の子供を抱えたハリスさんも、負傷が治ると鉱員になった。
朝から晩まで、穴ぐらでの仕事が続いた。ダイナマイトで鉱脈を崩しては、鉱石を掘り出す。まさに核サイクルの最前線を担っていたのだ。
ラドンガスが充満
体力があり、人望も厚いハリスさんは、現場監督に抜てきされて鉱山を渡り歩いた。やがてコロラドのヤマに移った1964年、移動検診で胸部疾患が見つかった。「その2、3年前から、息切れがするとこぼしていたのよ」とサラーさん。医師の忠告で、仕方なくヤマを下りて大工になった。
だが、大工仕事も続かなかった。成人した子供が父に代わって働き、家計を支えた。年を追って症状は悪化し、体重は以前の3分の2まで減った。分厚い胸板も細り、とうとうユタ州の病院へ入院した。
ウラン鉱山では、採鉱に伴っていろいろ放射性物質が出る。とりわけ肺を侵す危険性の高いラドンガスが、坑内に充満しやすい。そんな坑内でハリスさんは17年間もの間、働き続けた。
ニューメキシコなど4州が交わるフォーコーナー一帯で採掘されたウラン鉱石は、近くの精錬所へ運ばれ、さらに広島原爆を造ったテネシー州オークリッジの核工場で高濃縮ウランとなり、プルトニウムに変わって核弾頭ができ上がる。
「オヤジはただ、色の変わった石を掘り出すくらいにしか考えていなかったと思うよ。まして、それが原爆になるなんて知ってたはずがないよ」。チャーリーさんの眼鏡の奥がうるんだ。
労災手当はわずか
ウラン採掘が原因で発病し、死亡したといっても、公的な救済措置は労災補償くらいしかない。チャーリーさんも父の死後、弁護士に相談し、最近やっと労災認定にこぎつけた。アルバカーキの弁護士、アール・メッテラーさん(40)によると、同じようなケースはこれまでに約30件あるが、仮に手当が取れても月に4、500ドル程度という。
「労災の手当は、働いていた当時の給料を基準に算定するんだ。退職して亡くなるまでの期間を考えると矛盾だらけだよ。あんなお情けのような手当は、ナバホの誇りが許さない。正当な償いを要求する」とチャーリーさんは、胸の内の不満を吐き出した。
「もっと安全に働かせてさえくれたら、あの人はもっと長生きできたのにねえ」と言うサラーさんの、小麦色の肌の首にかけた水色のトルコ石が、小刻みに揺れた。
何も知らず、国策にほんろうされた一家。だが、居間の飾り棚には、ミニチュアの星条旗が、ちゃんと掲げてあった。