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世界のヒバクシャ

4. 肺がんの谷「レッドバレー」

第1章: アメリカ
第3部: ウラン採掘の村

術後1週間で退院

 「レッドバレー」は、その名の通り、道の両側に広がる平原も、四方を囲む岩山も、すべてレンガ色だった。澄み切った青空とのコントラストが目を射る。西部劇映画で有名なモニュメントバレー国立公園の南にあるナバホ先住民の居留地を訪れた私たちは、この谷で「男たちが肺がんで次々に死んでいる」といううわさを耳にした。

 村役場近くで出会った元鉱員レイモンド・ジョーさん(59)は、「ウラン採掘の最盛期には、夜になると周りの山にこうこうと明かりがついてなあ。とにかく掘りまくったもんだよ。その結果がこのざまだ」と言って背中の手術痕を見せてくれた。顔ははれぼったく、皮膚にもつやがない。

 今年1989年1月末、ニューメキシコ州シップロックの病院で、肺がんの手術を受けたばかりだった。費用は政府の医療扶助を頼った。病巣を摘出したというのに、傷口が十分いえないまま、わずか1週間で家へ戻った。

 彼が鉱山で働き始めたのは1952年だった。米国が水爆実験に初めて成功し、核軍拡レースが新段階に入った年である。1日8時間の2交代制が、間もなく3交代の24時間採掘になるほど、すさまじいウラン・ラッシュの時代だった。

素手で鉱石を扱う

 ダイナマイトが大地を揺るがし、坑内はもうもうたる粉じんが舞い上がった。「白人の現場監督が『入れ』と号令をかけるんだ。マスクなんてないよ。装備といえばヘルメットくらいだったな」とジョーさんは振り返る。粉じんが立ちこめる坑内で、崩れ落ちた岩石を貨車に積んで坑外へ運び出す。外では黄色い鉱石だけ選んでトラックへ積む。「素手のまま、ほこりまみれになってね」

 1時間働いて90セント(約130円)だった。「他に仕事がなかったからありがたかった」と、ジョーさんは、谷を包んだウラン景気をとつとつと語った。「石が原爆の材料になるらしいとは聞いていたよ。でも石が危険なものとは、だれも知らなかった。だから、体の心配なんて思いもしなかった」

 彼はその後ユタ、コロラドと回り、通算19年、ウランを掘った。1975年のこと、シップロックで受けた検診で「がんの疑いがある」と言われ、退職したが、労災手当は月たった283ドル(約4万円)しかなかった。これではとても7人の子供は育てられないので、妻のドロシーさん(50)が縫製工場に出て、家計を支えた。

 ピーク時、レッドバレーには200カ所のウラン鉱山があったという。谷間に点在する3つの集落(180世帯)から、150人余りが鉱山で働いた。その男たちの間で、肺がんが目立つようになったのは、1970年代の後半で、これまでに50人が亡くなった。5カ月前にも1人、そして今、1人が入院先で重体ということだ。

安全対策は1970年代

 一つのデータがある。1969年から82年の間に肺がんと診断されたナバホの男性32人のうち、23人までがウラン鉱山で働いていた。

 「みんな喫煙しない人だから、鉱山と肺がんは関係あるとみてよい」。これは調査に当たったニューメキシコ大学医学部のジョン・サメット医師の見解である。しかも「鉱山労働者の肺がんは、これからも出ると考えた方がよいだろう」とも予測する。

 サメット医師は「原因は坑内のラドンガスの疑いが強い」とみる。そのラドンガスを薄めるための換気装置がついたのは、1970年代はじめのこと。ジョーさんらは全く無防備でウラン採掘に従事したのである。

 インタビューの途中、ジョーさんは何度もせき込んだ。そのたびに介抱する妻のドロシーさんが「運命と言うにはひどすぎるわね」とつぶやいた。