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世界のヒバクシャ

6. 居住地覆う黄色い粉

第1章: アメリカ
第3部: ウラン採掘の村

ウラン選鉱し抽出

 ナバホ先住民の男たちが働いたのは、坑内だけとは限らなかった。ウランを選鉱し、溶剤で抽出する精錬所でも、彼らは主要な労働力だった。

 かつてウランラッシュにわいたフォーコーナーの中心地ニューメキシコ州シップロックの食堂で、日焼けしたナバホの男が「日本人かい?こんな所に何の用だい?」と話しかけてきた。ウラン精錬所で働いていた人を捜している、と答えると「オレもその1人だった」と言う。

 ラッセン・トーダッチーニさん(53)といって政府のインディアン管理局職員である。気軽に話を聞かせてくれて、わざわざ精錬工場跡まで連れて行ってくれた。

 彼が、シップロックにあったカーマギー社のウラン精錬所に勤め始めたのは1954年ごろのことだった。海軍に3年いて復員したところ、「新しい工場ができた」というので早速、応募した。

 最初は、砕いた鉱石にウラン抽出用の硫酸を加える仕事をした。間もなく精錬の最終工程の職場へ移る。機械から次々に出てくる黄色いウランの粉「イエローケーキ」を、200リットル入りのドラム缶に詰めるのが、トーダッチーニさんの仕事だった。

劣悪な環境で働く

 湿気を防ぐため、建屋は閉め切ってあった。「小さなマスクがあったけど、暑くてマスクどころじゃなかったよ。すき間をなくすため缶をたたくと、粉が舞い上がって…。黄色いほこりの中の作業だった」。仕事が済むと、着替えもせずにわが家へ帰り、翌朝、同じ服を着て工場へ通う。工場の屋根にたまった黄色い粉だけでも金額にして10万ドル(1,400万円)以上になった。そんな劣悪な環境で働いた。

 イエローケーキはテネシー州のオークリッジ核工場へ運ばれ、核兵器用の高濃縮ウランになった。「1日3交代で120人くらいいたかな。健康診断だって? 受けた覚えはないなあ」とトーダッチーニさんは当時を思い出して言う。4年働いてやがて、彼は給料のよい警察官に転職した。「ずっと働いていた友人が、最近、肺がんになったって聞いたよ」と、心配そうに言った。

 中西部のウラン鉱脈地帯には、精錬所が25カ所余りあった。フォーコーナーだけで7カ所を数え、ナバホ居留地はシップロック、モニュメントバレー、チューバ、メキシカンハットの4カ所だった。いずれも1950年前後に操業を始め、アフリカ、カナダ産ウランとの競争に敗れた1970年代、次々と閉鎖された。

 ところが、これらの工場跡にとんでもないものが残った。精錬の工程で生み出された膨大な量の放射性廃棄物、鉱滓(さい)である。

 1トンの鉱石からとれるウランは1.8キロ前後にすぎず、他はすべて廃棄物になる。エネルギー省の資料によると、ナバホ居留地の関連だけで900万トン、ユタ、コロラドなどを含む中西部全体では3千万トンにも達する廃棄物が、今なお工場跡に放置されている。

居住地覆うほこり

 野積みにされた廃棄物のほこりは、風にのって居住地域を覆う。その危険を知った住民は対策を要求し始めた。エネルギー省は重い腰をあげ、1982年から浄化作業に着手した。といっても、廃棄物を土で覆って飛散を防ぐという単純なやり方でしかない。シップロックの浄化工事は2年前にやっと完了したものの、居留地内の残る3カ所は、終了までにまだ2年かかる。

 「この下に廃棄物が埋まっているんだよ。ひどいもんだよ、全く」。トーダッチーニさんが案内してくれたシップロックの工場跡は、石だらけだった。市街地からわずか300メートル足らずである。2年前、浄化作戦が済むまで、この下の廃棄物のほこりが、人口3万5千人の町に舞っていたのだ。