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世界のヒバクシャ

1.実験の影響に不安みなぎる

第2章: ソ連
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場

 1949年8月29日、ソ連中南部カザフの原野で一発の原爆がさく裂した。以後、1989年10月まで40年、ソ連最大の核実験場セミパラチンスクで、少なくとも320回の原水爆実験が繰り返された。その実験が住民に及ぼした影響を取材したい―という申し入れが、さまざまな制約つきながら許可された。ここに報告するのは、依然として秘密に包まれたソ連核実験被害のごく一部である。

肉も酒も馬に依存

 モスクワから東南へ空路3時間半。カザフ共和国セミパラチンスク州の州都セミパラチンスク市も、市街地を取り巻く大平原もすべてが凍りつき、乾き切っていた。3月半ばというのに氷点下10~15度を指す。粉雪まじりの西風が、休みなく顔をたたく。

 小柄なカザフ馬も、彼らとともに生きる遊牧の民も、緑よみがえる5月をひたすら待っている。遊牧民の一人が、地平線につながる淡い鉛色の空を見上げて「少し青み始めたかな」と顔をほころばせた。何一つ遮るもののない平原で、彼らはもう春の足音を聞きつけたようだ。

 セミパラチンスク市街地の西約30キロにあるブリイルティシュ農場は、41年前、軍が接収した核実験ゾーンまで40キロ、爆発地点まで約120キロの位置にある。主にブロイラーを生産する農場だが、肉もミルクも「グムス」と呼ぶ低アルコール酒も、すべて馬の恵みに浴している。

 「みんなが核実験の影響を心配し始めている」と言って案内してくれたセミパラチンスク医科大微生物学部長マラト・ウラザリンさん(48)の言葉通り、農場は重苦しく沈んでいた。

「子供2人に障害」

 「9年前、カラウル村の近くで1日に33頭の馬が死んだ。次の日、隣村でも30頭が死んだ。実験のせいだろうか」「この農場に、子供が2人とも重度障害の気の毒な夫婦がいる。あれも核実験と関係があるのか」「『心配ない』と軍人は言い続けた。でも、もう信用できない」―こもごも語る人々の口調に、おびえと不信がみなぎる。

 核実験のたびに、震度4~5の衝撃があたりを襲った。「地震はたいてい午前中だったよ。揺れは1分間くらいかな」と農場の診療所で時間待ちの老人が言う。「ほら、あの亀裂は去年(1989)10月の実験の証明よ」と、若い女医さんが所長室の壁を指さした。

 セミパラチンスク市民も、実験場周辺に点在する村の住民も、実験による地震には、すっかり慣れっこになっていた。軍人が「問題ない」と言い続けたため、住民は放射線被曝について思い煩うことなどなかった。「地震くらいは」と、だれもが我慢してきた。

閉鎖求めて5千人

 それほど、核実験に無頓着(むとんちゃく)だったカザフの人たちが、1989年、全ソ人民代議員選挙のテレビ番組をきっかけに変わった。その年の2月26日、立候補演説のためテレビカメラの前に立った詩人でカザフ作家同盟第一書記のオルジャス・スレイメノフさん(53)は、用意した原稿をポケットにしまい込み、即興で視聴者に呼び掛け始めた。

 「今月、2度の実験で有毒な物質が大気中に噴出した。危険は核実験が始まった40年前から続いている。2日後、首都アルマアタで抗議集会を開こう」

 これが、セミパラチンスクの、いやソ連の核実験被害を公然と語った初めての言葉だった。呼びかけにこたえて、2日後の28日、5千人の市民が作家同盟本部前を埋めた。被害者救済、実験場閉鎖を求める「ネバダ・セミパラチンスク運動」の旗揚げであった。そのうねりが、「問題はない」と言う実験担当者のうそを一つずつはぎ取り、実験のおぞましい実態を明らかにして行くことになった。