×

世界のヒバクシャ

2. 水爆実験 市街地でも「きのこ雲」目撃

第2章: ソ連
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場

初の生々しい証言

 私たちの取材は、セミパラチンスク市内に限って許可されていた。実験場周辺へ近づくことはできない。仕方なく限られた日数の中で、実験について語れる人を訪ね歩いた。

 まず核実験用地の接収と住民の立ち退きに当たった州政府の元職員トリュワリ・イシェノフさん(62)に会った。息子夫婦ら5人で市中心部のアパートに住む年金生活者である。1949年8月の第1回原爆実験に先立つ6月、彼は農場の閉鎖、立ち退きを進めるよう命じられ、以後5年余り村々を回った。実験回数が増すにつれ、仕事は忙しくなっていった。実験場の東60キロの小さな村を訪ねた1953年夏、彼は身のすくむような光景を目撃する。それがソ連初の水爆爆発の瞬間であった。

 「あれは8月12日、クラスノユルタという村だった。午前11時前、閃光(せんこう)が走った。やがて地平線の向こうに黒い塊が見え、赤い泥の色に変わった。3分くらいして轟音(ごうおん)がし、その後に砂煙が襲ってきた。思わず手で口をふさいで地面に伏せたんだ。しばらくして起き上がって見回すと、建物は傾いていた。恐ろしくて、しばらくはだれも口をきけなかったよ…。でも、こんなこと、話していいのかね?」

 イシェノフさんは、途中何度も、取材に同行したセミパラチンスク医科大学のマラト・ウラザリンさん(48)に念を押した。「グラスノスチ(公開)だよ」と促すウラザリンさんも、初めて聞く生々しい証言に圧倒されていた。

次々と農場を閉鎖

 水爆実験当時、8歳だったカザフ・プラウダ記者レオニド・レズニコフさん(45)は、180キロ東のセミパラチンスク市の自宅で、そのきのこ雲を目撃した。その時のことを彼は「赤と黒の絵の具を混ぜたような雲は、雲というより、えたいの知れない生き物に見えた。西側に面した窓ガラスは、爆風でほとんど割れた。ラジオが『屋外へ出なさい』と繰り返し呼びかけていた」と話してくれた。

 イシェノフさんの任務は、あの体験以後、スムーズに運ぶようになる。農場のだれもが、不平を漏らすどころか、恐怖にとりつかれてしまったためである。彼が立ち会った農場の閉鎖は、実験場内のデゲレン山麓(さんろく)にあったデゲレン農場など8カ所にのぼる。周辺部の立ち退きは、大部分が南側の農場だった。「実験は風が北から南へ吹く時だけ行う、と軍人が言ってたから、今考えると放射能の影響を一応は考えたんだろうな」。彼はそう言って地図に視線を落とした。

 だが、すべての実験が風向きを考慮して行われたわけではない。今も語り草になっている1955年11月の超大型水爆実験の時、風は西から東、つまりセミパラチンスク市へ向かって吹いていた。

 「窓という窓が爆風で壊れた」「風圧で耳が聞こえなくなった」「暖炉の火があおられて火災が起こった」「ビルの下を歩いていた学生がガラスで重症を負った」「しばらくして汚れた雨が降った」「古い木造家屋が倒れた」などの証言は尽きない。被害は5百キロも東のウスチカメノゴルスク市まで及び、窓ガラスの破損が相次いだ。

放射線測定器なし

 実験の物理的被害や自らの体験について、市民は雄弁に語ってくれた。しかし、実験によって放射線量がどれだけ変化したか、実験直後の健康への影響はどうだったのかという問いかけには、だれもが「さあ」と首をひねった。

 答えられないのも無理はない。市民のために用意された放射線測定器は、人口36万人のセミパラチンスクに一台もなかったし、当時、放射線の影響を知る市民などいなかった。 それどころか、実験を目撃したことはもちろん、物理的被害について公言することは禁じられていた。機密保持のため、国家保安委員会(KGB)の監視網が張りめぐらされていた。だれもが、沈黙を守るほかなかった。