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世界のヒバクシャ

1. ひそやかに眠る「英雄」

第2章: ソ連
第2部: チェルノブイリ事故から3年 広がる後遺症

 1986年のソ連チェルノブイリ原発事故は、史上最悪の原発事故だった。被害は当初の楽観的な予測をはるかに超え、年とともに深刻の度を増している。「地球被曝」と形容され、世界の原発建設計画をスローダウンさせたあの事故から3年たった1989年、現地を訪ねると、住民の不信と不安が広がる中で、ヒバクシャ救済のさまざまな取り組みが続いていた。

妻の白衣つかんで

 モスクワ市街から北へ30キロ、シラカバ林の向こうにモスクワ市営ミチノ墓地が広がる。日曜日の朝、老夫婦や家族連れが、花を手に黙々と門をくぐる。丘の中腹に純白の真新しい墓がひっそりと並んでいる。大理石に刻まれた名前と誕生・没年月日が、鉛色の空の下で鈍く光った。

 ウラディーミル・シャシェノーク(1951・4・21~1986・4・26)

 1986年の4月26日午前1時過ぎ、電気技師だった彼は、チェルノブイリ原発4号機の建屋にいた。1時23分、大地を揺るがす爆発音と同時に屋根が落ちてきた。1,000レム(放射線の人体への影響の度合いを示す線量当量)を超す放射線を浴びて妻の働く病院へ運ばれ、明け方、宿直勤務中だった看護師の妻リューダさん(36)の白衣をつかんだまま息をひきとった。35歳の誕生日から5日後の死だった。

 ビクトル・ロパチュク電気主任技師(当時25歳)は、結婚してちょうど1年だった。爆発後3時間も、保安のため現場を走り回った。その後、急性放射線障害で倒れて13日間、「スイッチを切らなくては」と、うわ言を口にし続け、息絶えた。それから半月後、父親としての祝福を受けることもなく一粒種のユーリヤちゃんが生まれた。

 横2列に並んだ墓碑群の右端に、制服姿の写真をはめ込み、金の星をあしらった墓が2基ひっそりと建っている。原発消防隊の小隊長だったウラディーミル・プラビーク中尉と、原発職員の町プリピャチ市第6消防隊長、ビクトル・キベノーク中尉(いずれも当時23歳)が眠る墓である。

 爆発5分後、プラビーク隊が現場へ一番乗りし、11分後、キベノーク隊がこれに続いた。2人は原子炉周辺の消火と隣接の3号機への延焼防止のため先頭に立って消火に当たった。ほどなく、金属をなめたような異様な感覚とともに、彼らは猛烈な頭痛と吐き気に襲われた。40分後、2人はイワン・オルロフ医師(当時41歳)らの応急手当を受けながら意識を失った。1日後、気がついた時は800キロ離れたモスクワ第6病院のベッドにいた。

知っていながら…

 体を貫いた目に見えない力と闘うこと15日、5月11日、ついに2つの若い命は消えた。金属を口に含んだような感覚が何を意味するか、消防隊員たちは事故前の訓練で承知していた。知っていながら、壊れた屋根に上り、機械室に入って火を消した。墓碑に刻まれた金の星は、ソ連政府が亡き2人に贈った「ソ連邦英雄」勲章を意味している。

 彼らを手当てしたオルロフ医師も、後を追うように41年の生涯を終えた。彼もまた、医師として放射線被曝の意味を十分理解していた。

 ソ連政府が公表している31人の犠牲者のうち、ミチノ墓地に眠るのは27人である。だが、この丘にチェルノブイリ事故をうかがわせる文字は1つとしてない。寂しく、ひそやかな眠りがあるだけだ。それは遺族たちの願いだったのか、それとも事故の痕跡をとどめまいとする政府の意図なのか、だれにも分からない。

 割り切れない思いを抱いたまま、私たちはミチノ墓地を離れ、チェルノブイリへ向かうためキエフ行きの夜行列車に乗った。