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世界のヒバクシャ

3. 風下の一族次々がんで死亡

第2章: ソ連
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場

死の灰 吹きだまり

 核実験場から南へ160キロほど行った人口1万人足らずのカラウル村は、この40年もの間、知られざる悲劇の舞台だったのかもしれない。

 「実験は北風を見計らって行った」という軍の言葉に従えば、カラウルはまさに風下、「死の灰」の通り道で、村の西側に千メートル級の山並みを背負う吹きだまりである。予期しない風がしばしば吹いたとしても、村全体が高レベルの放射能汚染にさらされたのは、まず間違いない。

 反核組織「ネバダ・セミパラチンスク運動」の本部で事務局員を務めるマジナ・マカノワさん(24)は、カラウル村に住んでいた祖父母と6人のおじを、すべてがんで失った。祖父母の死は1960年代後半のことで、おじたちは1970年代に入って30歳代の若さで、相次いで亡くなった。

 「羊の遊牧をしていた30歳だった一番年下のおじは『兄が次々死ぬのは、爆発の毒のせいだ』と言って、アルマアタへ転居して来たんです。でも、がんから逃れられなくて…」。ただ一人残った彼女の父(48)は「もう故郷には帰れない」が口ぐせになった。「1989年の夏、核実験反対集会でカラウルに行った時、おじさんたちのことを思い出して涙が止まりませんでした」。マカノワさんはそう言って目頭を押さえた。

意図的に住民残す?

 実験場の接収、住民の立ち退きを担当した元州政府職員トリュワリ・イシェノフさん(62)には、立ち退きの進め方に関して、今も解せないことがある。実験場周辺、特に風下に当たる農場は一度に閉鎖されたのではなく「なぜか、半年か一年くらい間をおいて数回に分けて行われた」というのである。

 「軍人たちが放射能の危険を知っていたのなら、一度に移転すればいいのに、だれの命令か知らないが『とにかく分割しろ』と言うんだ」。その間、待機させられた住民は「死の灰」とともに暮らしたことになる。

 「残された人は実験の影響を研究するモルモットだったのではないか」とイシェノフさんは疑問を抱く。彼は知らなかったが、アルマアタの「ネバダ・セミパラチンスク運動」本部で、その疑問を裏付けるような話を聞いた。

 1953年、初の水爆実験に備えて、イシェノフさんが周辺農民を運び込んだカラウル村もまた、立ち退き区域に含まれていた。ところが、カラウルでは「成人男子40人は村に残れ」という具体的な命令が出たというのだ。彼ら残留組もまた、160キロ北の空を不気味に彩るきのこ雲を目撃した。「ネバダ・セミパラチンスク運動」の機関紙「イズビラーチェ(有権者)」編集長トゥルソノフ・イエルメンコさん(28)の調査によると、村に残された40人のうち、生存者はわずか5人にすぎない。

 「彼らの死は、実験による意図的な死としか考えられない」と彼はこぶしを握りしめて言い切った。

軍公表数値に疑問

 実験場閉鎖運動で医学部門を担当するカザフ科学アカデミーのサイム・バルムハノフさん(67)は「大気圏実験のころ、風下300キロまでの放射線レベルは200ラド(放射線に照射された物質が吸収したエネルギー量の単位)を超えたはず」と言い、軍が最近公表した37ラドという数値を言下に否定した。

 この40年、「死の灰」の吹きだまりカラウルで、人体実験に類する仕打ちを含め、悲劇が繰り返されたことは、ほぼ間違いない。しかし、それらを裏付ける科学的な資料はまだ日の目を見ていない。しかも、悲劇の舞台は、サルジャン、カイナル両村をはじめとして、まだまだ広がる可能性が強い。