5. 放射線被曝の影響? 障害児増える
13年1月15日
第2章: ソ連
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場
足や指がわん曲
40年も繰り返された核実験がもたらした「死の灰」の汚染は、周辺住民はもちろん、生まれてくる子供に遺伝的な影響を与えた可能性がある。セミパラチンスク市の小児科医グリシア・ガディクバイエバさん(53)が、大きく引き伸ばした写真を取り出して、1枚ずつ説明を始めた。
「この子は7歳。生まれた時から左足が曲がり、少し知恵遅れ」「この女の子は13歳だけど、身長、体重は7~8歳程度」「3歳のこの男の子は両足がわん曲し、足の指が曲がったまま」。さらに両足が引きつったままベッドに横たわる19歳の青年や、両手の指が極端に短い男の子の写真を見せてくれた。
「この子たちに共通しているのは、両親が核実験場周辺に住んでいたか、今も住んでいることです」。一通り説明を終えた彼女は、こう付け加えた。「実験場の東70キロのズナミンカ、南西140キロのカイナル、そして風下の村カラウル。あるいは影響はもっと広範囲に及んでいるかもしれません」
戦後、ソ連の農業政策に従ってカザフ遊牧民は、集団農場に組み入れられた。彼らにとって核実験は確かに驚きではあっただろう。しかし、軍人は「何も問題ない」と言い続けてきたから、だれも健康の心配などしなかった。彼らにとって核実験は、地震と同義語でしかなかったのだ。
知らなかったのは遊牧の民だけではない。医師であるガディクバイエバさん自身、「恥ずかしい話だけど、実験が生まれてくる子供にまで影響するかもしれないなんて、長い間知らなかった」と言う。10年ほど前、障害児の親から相談を受けたのがきっかけで、放射線との関係に関心を持ち始めた。
モスクワから圧力
「放射線と遺伝について詳しい情報を聞こうと州保健部長に会いました。部長には一言『その問題に深入りしない方がいい』と言って片づけられてしまいました。部長も何か気づいていたようです。きっとモスクワから圧力がかかっていたのでしょう」。彼女はそう言って視線を落とした。
実験場に最も近い都市、セミパラチンスク市は、自国人でさえ立入りを規制されている。それだけ、市民に対する情報管理も厳しい。保健部長の「深入りしない方が…」という忠告は、彼女にとって命令に等しかった。
1989年2月、セミパラチンスク核実験場の閉鎖を求める市民運動がスタートし、住民や科学者らの頭上にのしかかっていた重しは取り除かれた。ガディクバイエバさんも、実験場周辺の診療所と連絡をとって、情報を交換できるようになった。その結果、集まったのが冒頭に紹介した障害を持つ子供の写真である。子供たちの症状がみな、親の被曝が原因とは断定はできないが、疑いは否定できない。ただ過去の正確なデータが得られないのが残念だという。
ガディクバイエバさんら小児科医は、乏しい資料の中から、子供たちへの影響を追い続ける。その結果1960年に人口千人当たり6.1人だった州内の死産率が、1988年には12.5人と倍増していることを突き止めた。障害児の発現率が1980~85年の間に人口1万人当たり11.8人から29.2人に増えていることも分かった。
「真の調査」端緒に
「真に住民のための調査は始まったばかりです。まだ調査とは呼べないかもしれませんが、死産や障害児の数字を見ると、やはり放射線の影響を考えないわけにはいきません」と、彼女は言う。
また、実験場周辺の放射能の分布状態、住民の体内被曝につながる馬や羊の汚染の実態、住民の健康状態の把握など、1949年の第1回実験から41年間、すでに第三世代に入っている今、こうした実験の影響をどこまで正確につかめるかがこれからの調査の大きな課題だ。
「難しいけどやらねばなりません」と、ガディクバイエバさんはきっぱり言った。