6. ほど遠い「核」のグラスノスチ
13年1月15日
第2章: ソ連
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場
伝染病調査と偽る
カザフの原野で40年続いた3百回を超える核実験について、軍人たちは「問題ない」と繰り返してきたが、実はひそかに実験の影響を調べていた。
古ぼけた木造のセミパラチンスク州保健部の一角に、その秘められた調査機関「ブルチェリョーズ診療所」があった。ブルチェリョーズというのは、この地方に多い羊の伝染病名である。一見、もっともらしい看板は掲げていたが、羊の伝染病を研究したことは一度もない。
出入りするのは軍に直結する医師や科学者に限られている。ここで市民の目を欺きながら、放射線の測定や周辺住民の健康調査を続けてきたのである。1989年10月、実験場閉鎖を求める市民運動の突き上げで、看板を「放射線医学研究所」と改めた。だが市民は、秘密主義と官僚主義への皮肉をこめて、これまで通り「第4部」と呼ぶ。
「第4部」の秘密研究は、初めての核実験から12年後の1961年に始まった。研究は、「セミパラチンスク40」の暗号名を持つ核実験基地の町クルチャトフの司令官や、モスクワの保健省第3局と連携をとって進められた。研究スタッフは、医師25人を含む125人だった。
「第4部」の研究成果が、実験場周辺の被曝住民の健康維持のために活用されたことは、過去一度もなかったし、看板をかけ替えた今もまだない。長年研究に携わり、秘密のかぎを握ると目されるボリス・グーシェフ医師(56)にインタビューを試みた。
―なぜ偽りの看板を掲げて住民を欺く必要があるのですか?
命令に従っただけだ。
―何を調べたのですか。
放射線レベルの変化と周辺住民1万人の健康状態を定期的にチェックした。
―住民は検査の目的を知っていたのですか。
軍は「核実験の影響はない」と説明していたから、住民に被曝の影響調査だとは言えなかった。
―調査で分かったことは何ですか?
がんや白血病がやや多い。でも放射線の影響かどうか断定できない。初期の段階では検査技術のレベルが低かったので、数値の比較が難しい。
―遺伝的な影響はないのですか?
何とも言えない。
―調査結果をもう少し具体的に話してもらえませんか。
私には権限がない。今は発表できない。
―地下実験に移行して、放射線被曝の影響は減りましたか。
状態はよくなった。しかし軍の情報によると、1989年2月もそうだったが、ほかにも地上への放射性物質の噴出事故があったと聞いている。
―住民の不安を考えると、一刻も早く資料を公表すべきではないですか。
指示がない以上、研究結果は公表できない。
州保健部長は無言
時折、長い沈黙が続くもどかしいインタビューだった。同席した州保健部長は、終始無言のままだった。傍らの次長がたまりかねたように「州内の人口は84万人だから『第4部』の調査対象1万人は少なすぎる。せめて10万人に拡大して、共同研究をする必要がある」と口をはさんだ。だが、それに対する返答は得られず、会見はこれで終わった。
ゴルバチョフ大統領が掲げるグラスノスチ(公開)は、「ネバダ・セミパラチンスク運動」の高揚が示すように、カザフの市民を勇気づけた。しかし、こと核問題に関する限り、グラスノスチはまだまだ遠い。かたくなに資料の公表を拒むグーシェフ医師とのインタビューで、そう思い知らされた。