7. 実験場閉鎖求め住民立ち上がる
13年1月15日
第2章: ソ連
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場
第1部: ソ連最大のセミパラチンスク核実験場
軍人から告発電話
セミパラチンスクでの取材を終えた私たちは、カザフ共和国の首都アルマアタを経てモスクワへ戻った。私たちの取材を実現させるために尽力してくれた「ネバダ・セミパラチンスク運動」のオルジャス・スレイメノフ議長(53)は、ゴルバチョフ大統領誕生の人民代議員大会に出席するため、ちょうどモスクワ・ホテルに滞在中だった。
「1989年、18回の地下核実験計画のうち11回は中止になった。10月以降、もう半年近く実験は止まっている。だが、われわれが沈黙すれば、市民に対する『核戦争』はまた始まるだろう」。スレイメノフさんは一点を見据え、実験場閉鎖への不退転の決意を野太い声で語った。カザフ生まれの詩人でもある彼は、1989年3月、全ソ人民代議員に当選し、最高会議議員も務めている。
運動のきっかけとなったのは、1989年2月26日のテレビ演説である。「あれを決意させてくれたのは、実験基地の軍人からの電話だった」とスレイメノフさんは振り返った。2月12日と17日の地下実験で漏れた放射能が、180キロ北の基地クルチャトフを襲い、軍人までが被害者になっているという驚きが、彼の沈黙に火を点じた。
2月28日の抗議集会をかわきりに、実験場閉鎖・被害者救済運動を旗揚げし、8月6日にはカラウル村で反対集会を開いた。代議員大会では実験中止要求演説も行った。核被害への不安、40年に及ぶ広大な原野の環境破壊などへの市民の不信と怒りを背景に、運動は着実に浸透し、広がっている。東欧自由化の波や、ソ連国内の民族運動が、追い風となって彼とカザフの仲間を励ます。
「国境超え連帯を」
だが、油断はできない。「軍人たちは、明日にでも核実験のスイッチを押そうと待ち構えている。剣はわれわれの頭上にある」とスレイメノフさんは口元を引き締めた。
セミパラチンスクを取材中の1990年3月11日、実験場閉鎖運動の活動家が、思い詰めた表情で語ってくれた言葉を思い出す。「米国が昨日、ネバダで核実験をやった。それがわが国の軍事愛好者に実験再開の口実を与えるかもしれない」。「ネバダ・セミパラチンスク運動」は、その名の通り、ネバダの閉鎖がない限り、自国の実験場閉鎖もないことを意味している。
「だからこそヒロシマ・ナガサキ、ビキニ、ポリネシア、ネバダ、セミパラチンスクなど、世界中の核被害者が連帯する必要がある。西と東の境界が取り除かれようとしている今、軍事愛好者に平和の翼を与えなければ」。ホテルの執務室で、スレイメノフさんは熱を込めて語った。
初の国際会議計画
その彼の最大の悩みは、セミパラチンスク実験場周辺の底知れない放射線被害である。この1年余り、運動の高揚とともに集まってくる情報は、悲観的なものばかりだった。
がんの発現率は他地域の3~4倍、風下の農場のストロンチウムは360~2,900倍に達する。死産、乳児死亡、障害児、白血病の発現率などは、いずれも汚染地域で突出している。
「まだ科学的とは言えないかもしれないが、だれを救済すべきか、急いで決めなければならない。どこが危険地帯か科学的な判定が必要だ。われわれは恐れることなく、真実を公開する。核被害に国境はない」とスレイメノフさんは言う。
「ネバダ・セミパラチンスク運動」と核戦争防止国際医師会議(IPPNW)主催の「核実験禁止国際市民会議」が1990年5月24日から4日間、カザフ共和国の首都アルマアタと実験場の風下、カラウル村で開かれた。ヒロシマ、ネバダ、セミパラチンスクの核被害者が、そこで初めて顔を合わせた。スレイメノフさんの核実験禁止運動への情熱は、さらに強まる。