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世界のヒバクシャ

2. 100レムの不安

第2章: ソ連
第2部: チェルノブイリ事故から3年 広がる後遺症

40分後に現場入り

 事故処理に出動した人たちの苦悩は、3年を経ても続いていた。キエフ市消防局のワシリー・ダビディエンコ軍曹(27)は腕や足に取り付けたコードを気にしながら、運動能力測定用のペダルを懸命に踏んでいた。場所は、チェルノブイリ原発事故の被曝者調査を続けるキエフ市の全ソ放射線医学研究センターだ。

 検査員が「はい、もういいわよ」と声をかけると、彼は心配そうにデジタル表示の数値をのぞきこんだ。

 「結果はどう?」  「さあね。私はなんとも言えないわ」  こんなやりとりに、案内してくれた医師が割り込んだ。「大丈夫さ。今は元気で働いてるんだろ? 心配ない、心配ない」

 あの爆発事故当時、彼はプリピャチ消防隊所属だった。非番で、原発から約4キロ離れたプリピャチの自宅にいたところ、深夜の非常招集がかかった。2人の子供が起きないよう、そっと身支度して消防署へ急いだ。現場到着は爆発から40分後、午前2時を少し回っていた。

 現場は異様な雰囲気に包まれていた。両腕をだらんと垂らして背負われてくる技師や発狂したように何かをわめきながら4号機のそばから駆け出してくる同僚。崩れた屋根の一角から噴き出す炎が、高い煙突を不気味に照らし出していた。3時間くらい現場で消火活動をした。

 それからさらに2日間、防護服に身を固めて現場へ通った。やがて軽い下痢に見舞われるようになり、検査の結果モスクワの病院へ送られた。「下痢はすぐ止まったさ。訓練で教えられたような急性症状は、ほかにはなかったよ。髪の毛が抜けた仲間が多かったけど、オレはそれもなかったんだ」。彼の言葉は、こちらに語りかけるというより、自らを勇気づけようとする響きを持っていた。

異常はないのに…

 事故から半年たった秋、6カ月ごとの検査が始まった。3度目の検査入院で、彼は自分の被曝線量が100レムだったことを初めて知った。ソ連の急性放射線障害のランク付けに従うと、それは4つのランク中、最も軽い「重度1」(80~210レム)に当たる。

 確かにダビディエンコ軍曹の急性症状は軽くてすんだ。3年たった今も体に異常を覚えることもないし、3~4週間ごとに受ける検査を終えて医師と面談しても「問題は何1つない」と言ってくれる。

 それでも、事故現場やモスクワの病院の光景が彼の頭から離れない。入院中の5月10日には、親友のニコライ・ティチェノク(当時23歳)が死んだ。1年後輩の何でも話し合える友だった。ショックから立ち直る間もなく、職場の同僚が次々と放射線被曝の犠牲になって行った。みな同じ20代の若者で、1週間に6人もが死んでしまった。

 あれから月日もたって「ひょっとしたら自分も」という不安は少し薄らいだ。「でも、こうして検査に来ると、またあの地獄のような光景を思い出すんだよ」と言って彼は、矢継ぎ早に質問を始めた。「広島じゃどうなんだい? 放射能は土の中にまだ残ってるのか?  がんは多いのか? 子供は問題ないのか?」

 その口ぶりは、検査のたびに「大丈夫」「問題ない」を繰り返し聞かされていることへのいらだちだった。

 「でも家へ帰ると、オレがここで医者に質問するのと同じことを、妻が聞くんだ。すると今度はオレが妻を安心させる役目さ。『大丈夫、何も問題なかった』とね。こんなこと、もうたくさんだ」

 明らかに、彼の心は揺れ、100レムの放射線が彼を脅かし続けていた。