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世界のヒバクシャ

5. 被曝記者、放射能の危険警告

第2章: ソ連
第2部: チェルノブイリ事故から3年 広がる後遺症

8日後にルポ掲載

 ウクライナ北部から白ロシア南部にかけての慌ただしい取材を終えて、私たちはウクライナ共和国の首都キエフへ戻った。

 「チェルノブイリ原発事故の現場へ最初に入ったジャーナリストです」。若いロシア人通訳は、ノーボスチ通信ウクライナ支局のウラディーミル・カリンカ記者(52)をそう紹介した。

 現場へ一番乗りしたという彼が、事故を知ったのは「ソ連で原発事故か」というストックホルム発のロイター電が世界を駆け巡った後、事故から2日もたった4月28日だった。取材許可をとるのに手間どり、マイカーで現場入りしたのが29日、現地から送ったルポが新聞に載ったのは爆発から8日後の5月4日のことだった。現場近くのコパチ村を基地に、放射線の封じ込めのために闘う科学者や軍人、それに無人の町と化したプリピャチを2日間取材した。取材中100レムの放射線を浴びたが、幸い急性症状は出なかった。

 キエフ市の中心部にある支局を訪ねた日、彼は4週間の被曝者検診を終えて職場に戻ったばかりだった。「恥ずかしい話だけど、あの事故を取材するまで原発や放射線の知識はなかったんだ」と打ち明けた。

放射線の恐怖実感

 彼を含めて、新聞、通信、テレビ、映画の関係者が、現場取材に行って被曝した。カリンカ記者の同僚カメラマンで、チェルノブイリ事故の写真で数々の国際賞を手にしたイーゴリ・コースチン記者(52)も、事故の後、現地へ通い続けて4本のドキュメンタリー映画のシナリオを書いたウクライナテレビのレオニード・ムジュク記者(42)もそうである。彼らもまた「原発は安全」と信じていた国民の1人であり、そのことを国民に知らせる仕事をしてきた。

 しかし、急性症状で入院中の患者を取材し、4号機をコンクリートの「石棺」に封じ込める異様な現場に立ち会って、彼らは初めて放射線の恐怖を実感した。そして自らも被曝者であるという動かしがたい事実を前にして、彼らは変わった。ゴルバチョフ書記長(当時)が唱える「グラスノスチ」(情報公開)もチェルノブイリ報道の支えになった。

 汚染地域住民や原発職員の健康問題、水・食品の安全性など、キエフのチェルノブイリ担当記者たちは、事故以後のさまざまな問題を精力的に追い続ける。

 そんなチェルノブイリ報道の1つに、カリンカ記者が1989年2月に書いた「がん患者倍増・家畜に奇形も」という事故の影響を懸念する記事がある。ところが、この報道に対してモスクワの医学界が真っ先に「科学的でない」とかみついた。共産党機関誌プラウダも「客観性に欠ける」という批判記事を載せた。

 だが、彼は動じない。「学者にしろプラウダの記者にしろ、現地を見もせずに攻撃している。オレは最前線の医師や獣医に何度も確かめて、事実だけを書いたんだ。こちらが反論したら今度は『現地の医師のレベルが問題だ』と言い出した。クレームをつけた連中の方がよほど、非科学的じゃないか」と語気を強めた。

 カリンカ記者が、問題の記事を取材したのは、原発から50~90キロメートルも離れたジトミル州ナロジチ地区だった。「目のない子豚を見た時はショックだった。放射線の影響かどうか、すぐ調べる必要があると思ってあの記事を書いた」と言う。記事が載った後、住民の検査や土壌、食品の調査が急きょ行われ、その結果をもとに避難勧告が出た。もし彼の記事がなかったら、住民たちは間違いなく汚染地域に住み続け、さらに多量の放射線を浴びたはずである。

 「学者も官僚も、放射線に対して楽観的過ぎる。住民の健康をもっと考えないといけないと思うんだ」と、もどかしそうに彼は言った。