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世界のヒバクシャ

1. セシウムの雨 暮らし脅かす

第2章: ソ連
第3部: 国境超えた原発汚染―スウェーデン

 1986年のソ連チェルノブイリ原発事故によって放出された大量の「死の灰」は、ソ連国内だけでなく国境を越え、ヨーロッパを広く汚染した。バルト海を隔てたスウェーデンでは、広大なラップランドの原野にトナカイを追って暮らす遊牧民サーミ(ラップ人)や、中部の酪農地帯に大きな被害をもたらした。その「後遺症」は、3年を経てなお生々しく残っていた。

トナカイと暮らす

 冬を越したラップランドの平原からトナカイの群れを追って約200キロ。ノルウェー国境に近い高地へ移動を終えたばかりのペールアンダーシュ・ブリンドさん(62)と妻のアンナさん(56)はクリンプフェール村にある夏の家で、長旅の疲れをいやしていた。5月半ばというのに、まだ村は雪に覆われ、湖は氷に閉ざされていた。

 「去年夏に処分したトナカイ約800頭のうち、食用にできたのは16頭だけ。あとはミンクのエサにするか捨てるほかなかったの。こんなに美しい自然が放射能で汚されているなんて、今でも信じられないのよ」と言って、アンナさんは肩をすぼめた。

 5、6月はトナカイの出産期である。この時期は山の中にそっとしておき、7月には生まれたばかりのトナカイの耳に、飼い主が分かるように印をつけ、8~9月になると群れを1カ所に集めて食肉加工する。そして冬場を迎える10月末から11月にかけ、残ったトナカイを平地の森に移す。これが自然とともに暮らすサーミの1年だ。

 しかし、彼らの故郷ラップランドは、チェルノブイリ事故から2日後、雨とともに降り注いだ「死の灰」に汚染された。なかでもクリンプフェール周辺のセシウム137による土壌汚染は1平方メートル当たり6万~8万ベクレル(放射線の強さを表す単位。放射性物質の原子が、1秒間に1個の割合で崩壊して別の原子に変わるときの放射線の強さが1ベクレル)。スウェーデンでも極めて汚染のひどい地域となった。

8割近く廃棄処分

 事故から1年内に食肉用に処分されたトナカイは国内全体で9万5千頭にのぼる。うち7万5千頭までが、販売許可基準値(当時、1キログラム当たりセシウム137=300ベクレル)を超えたため、政府が「補償金」を支払って廃棄処分された。

 膨大な補償費にたまりかねたスウェーデン政府は、事故から1年後にトナカイやムース(大ジカ)の肉、野イチゴ、キノコ類、淡水魚などセシウム汚染が避け難い食品の販売許可基準を1,500ベクレルに緩めた。しかし、現在もなおラップランドでは、トナカイ肉と湖で捕れる淡水魚は最高5万ベクレル、ムース肉で5千ベクレルもある。事態は3年前と比べほとんど好転していない。セシウム137の半減期は30年と長い。汚染された野草やこけを食べる野生動物への影響はまだまだ続く。

 1,500キロも離れたチェルノブイリで起こった事故のつめ跡は大きい。ブリンドさんは半ばあきらめ顔で言った。「これから10年、20年と汚染が続いても、わしらはいまの生活を変えることはできんよ」

募る若者の不安

 ブリンド夫妻が「トナカイ遊牧にこだわり通すほかない」と心に決めているのに対し、若い世代の人たちは迷っていた。

 「放射能汚染の影響ばかり考えて生活してたらノイローゼになっちゃうわよ」。ブリンドさん夫妻の家で会ったオーサ・ベールさん(25)は白い歯を見せながら言った。小柄な体にジーパンにTシャツ、短髪が似合う。ベールさんはブリンド家の長男、ペールビョールンさん(33)と「共同生活」を続けている。両親の近くに住み、トナカイを所有してサーミの伝統的な暮らしを受け継いできた。

 「2年前に1度だけ体内のセシウム量を測ってもらったの。その時は1万ベクレル。でも、それっきりよ」。後は測ってみる気がしない、と言う。放射線にはにおいも色もない。「人間の五官で分からないものにおびえるなんていやなの。トナカイとともに生きる生活を選んだのも、生まれ育ったラップランドの美しい自然が好きだから」と明快だ。

 年々、サーミ語を話せる若者が減っている。しかし、彼女やペールビョールンさん、彼の弟ユーンウルフさん(32)は、スウェーデン語に劣らずサーミ語も堪能で英語も達者だ。テレビのチャンネルを回すと、米国のケーブルテレビ局の24時間ニュース番組がいつでも見られる。

 「森の中にいても世界の動きは分かるのよ。科学の発達のおかげね。でも、自然破壊は困るわ。放射能汚染のことは忘れるように努めているのよ」とベールさんは言う。しかし、トナカイを解体処理する8、9月がめぐってくると、いやでも汚染を思い出す。1キログラム当たり1,500ベクレルの販売許可基準値があるため、昨年(1988年)も肉の大半を捨てなければならなかった。

 「食用にできなければ政府から補償金が出るの。だからこの点での心配はありません。でも、せっかく育てたトナカイの肉を捨ててしまうなんて、何のために働いているのか分からないわ」。ベールさんは、汚染騒ぎ以来、「労働」の根源に疑問を感じ始めているのだ。

 サーミの若者たちは、日本製のスノーモービルやオートバイに乗ってトナカイの群れを追う。徒歩とスキーで、200~300キロを移動した父母の時代と比べ、労働は大幅に軽減された。それでも、トナカイで生計を立てようとするサーミの若者は徐々に減っている。それに追い打ちをかけたのがチェルノブイリ事故だ。

「赤ちゃん? 欲しいけど…」

 「これから20年、30年とセシウム汚染が続くと思うと、若者が伝統的な生き方に二の足を踏む気持ちも分かるだろう。同じような汚染事故が繰り返されないという保証もないしなあ」。弟のユーンウルフさんが、同世代の仲間のトナカイ離れを、こう分析した。時としてサーミの若者たちの脳裏をよぎる不安は、チェルノブイリ事故が起きるまでは想像だにできなかった。

 トナカイを追っての生活は、サーミが親から子、子から孫へと受け継いできた生活様式だった。それが崩れる時、サーミ独自の伝統はどうなるのか。カギを握る若者たちが、今、将来の選択に迷っているのだ。

 ベールさんらの胸の奥深くに宿ったサーミの伝統への不安は、体内に蓄積された放射性物質がもたらすかもしれない健康への不安とも重なり合っている。

 「赤ちゃん?欲しいけど、放射線のこともあるし、今のところ彼も私もつくるつもりはないわ」 と彼女はあっさり言った。