1. 「死の灰」逃れ島をあとに
13年1月28日
第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第1部: マーシャル諸島の「核」難民
第1部: マーシャル諸島の「核」難民
広島・長崎の原爆被災から1年後の1946年7月、史上4番目の原爆が中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で爆発した。以後13年間に米国はビキニ、エニウェトクの2つの環礁で66回の核実験を行った。1958年に実験が中止されて30余年、周辺の島々を訪ねると「死の灰」は今なお、島民の命と暮らしを脅かしていた。「核」は時を超えて人を追い詰める。
1985年5月、ビキニの東190キロにあるロンゲラップの全島民300人は後ろ髪を引かれる思いで、国際環境保護団体「グリーンピース」の船に乗り込んだ。家財道具も家畜もすべて積んだ。行き先は190キロ南の無人島メジャトである。
クェゼリン環礁北側の小島メジャトが、希望にあふれた新天地になる保証は何もなかった。にもかかわらず住み慣れたロンゲラップを放棄せざるを得なかった理由はただ1つ、島の人々が「ポイズン(毒)」と呼ぶ放射能汚染から逃れるためだった。
ロンゲラップ島民に離島の決断を迫った「ポイズン」。その源は今から1950年代半ばまでさかのぼる。
信じた「安全宣言」
1954年3月1日の明け方、米国の実用型水爆第1号「ブラボー」は、ビキニ環礁で炸裂した。静岡県焼津市のマグロ漁船第5福竜丸の乗組員23人が被曝した、あの実験である。放射性物質を含んだサンゴ片は、西風に乗りロンゲラップに雪のように降り注いだ。
激しい嘔吐(おうと)、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射線障害が島民を襲い、米艦艇に収容された。米国から食糧の補給を受けながら3年間、流浪の生活を余儀なくされた島民は、「安全宣言」を信じて1957年、故郷の島へ戻った。
その1人、取材の通訳を務めてくれたネルソン・アンジャインさん(61)は「3年も無人だった島は、見た目には何も変わっていなかった。でもヤシの実や木の根を食べたら下痢するんだ。結局、元の島じゃなくなっていたのさ」と島へ戻った当時を振り返った。
それから10年ほどして、かつて経験したこともない病気で、次々と死者が出始めた。今では島民のだれもが知っている甲状腺がんや白血病である。当時、2年に1度、米国の医学調査団が訪れるたびに、要治療者はハワイや米本国へ送られた。
「毎年のように、あの奇妙な病気に、島のだれかがやられた。特に子供がひどい。みんなが『ポイズンのせいだ』と言い始めて浮き足だった」と、島の長老ジャッケン・エドモンドさん(87)が、メジャトへの移住の経緯を聞かせてくれた。「年とっているし、島を出たくなかったよ。でも、子や孫のことを考えると、ポイズンは怖い。それで全員移住となったわけさ」
旧ロンゲラップ島民に会うため、モーターボートで10時間かかって、メジャトを訪ねた。
「この島はヤシやパンの実も魚もあまりとれないよ」。薄暗いランプのそばで、3人の子の父というアチ・カーンさん(26)が、故郷の島を懐かしむ口調で言った。慢性的な飢餓状態で、頼りは米国の食糧援助だが、これも常に不足がちである。
メジャトに移って4年。ギリギリの生活を強いられる人たちは、やがて重大なことに気づいた。ロンゲラップのポイズンからは逃れても、体内に蓄積されたポイズンからは逃れられない―と。