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世界のヒバクシャ

3. 低線量被曝がもたらす脅威

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第1部: マーシャル諸島の「核」難民

痛々しい手術の跡

 「死の灰」の影響はロンゲラップ島だけにとどまらない。その現実をマーシャル諸島の首都マジュロで見た。島に住むリーゼン・マイケルさん(53)は、甲状腺腫瘍(しゅよう)の2度目の摘出手術を受け、米国から帰ったばかりだった。のど元に残る弧状の手術跡が痛々しい。

 彼が生まれ育ったウトリック島は、ビキニ核実験場の東520キロにある。1954年の「ブラボー」実験当時は18歳だった。「ロンゲラップではパウダー(死の灰)が3~4センチ降り積もったって聞いたけど、ウトリックは霧がかかったように見えただけだよ」と言う。

 米エネルギー省(DOE)の前身・原子力委員会(AEC)の報告書によると、実験直後のウトリック島民の被曝線量は平均14ラドで、ロンゲラップ島(175ラド)の10分の1に満たず、AECも「放射線の影響は考えられない」と断定した。だから、マイケルさんら島民157人は、3カ月後には避難先のクェゼリン本島から帰島を許された。

 だが、「死の灰」はウトリックの人たちを、じわじわと侵し続けていた。ロンゲラップ島民の異常が1960年代に現れ始めたのに対し、ウトリックでは少し遅れて、1970年代から顕著になる。

「常識」超えた現実

 「2年に1度来る調査団の医師は、初め『心配ない』と言っていたし、みんな安心していた」とマイケルさんは言う。ところが、1970年ごろ、彼ののどにしこりができた。何回かの調査の後、医師ははっきりと「放射線被曝の影響だ」と認めた。1回目の手術を受けたのは1980年だった。

 マイケルさんと同じようにマジュロに住むウトリックの被曝者カール・ジョエルさん(73)が、甲状腺の手術を受けたウトリック島民を指折り数えてくれた。「少なくとも40人はいる」と言った後、「不思議なことに、その中には、後から島に来た人も含まれているんだ」と付け加えた。

 その人、モーテ・ブラインさん(61)は、「死の灰」から5カ月後の1954年8月、牧師としてウトリックに住みついた。在島9年でマジュロに戻ったブラインさんは、1970年ごろからのどの異常を覚えるようになり、結局1980年、マジュロの病院で甲状腺の摘出手術を受けた。

 1人平均14ラドの低線量被曝というブラインさんのような2次被曝でさえ異常が現れてきた。これまでの放射線医学の「常識」では説明のつかないウトリックの現実を、どう考えたらいいのだろう。

食物連鎖で体内へ

 マーシャルの人たちが好んで食べるものにヤシガニがある。これはヤシの実をえさにするヤドカリに似た大型甲殻類だ。年に1度脱皮し、その殻を食べる習性を持つ。ヤシの実からとり込んだ放射性物質は、ヤシガニの体内に濃縮しながら蓄積する。

 AEC、DOEは食物連鎖による人体への放射性物質の蓄積を考え、汚染のひどかったロンゲラップ島ではヤシガニを食用禁止にした。しかし、ウトリック島では何の制限も加えなかった。「島ではたくさん捕れたし、よく食べた。放射能汚染のことを教えてくれたら口にしなかったろうに…」とブラインさんがかすれ声で言った。

 マイケルさんやブラインさんら「のどを切った人」はみんな直径7ミリほどのピンクの錠剤を持っている。それはDOEの医師が、検査のたびに配る甲状腺ホルモン剤である。手渡す時、医師は必ず「毎日1錠飲みなさい。1日忘れると寿命が1年縮むよ」と言う。

 島民は「14ラド」と「1日1錠」から一生逃れられない。