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世界のヒバクシャ

4. ビキニの未来 ぬぐえぬ対米不信

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第1部: マーシャル諸島の「核」難民

5年後に再び離島

 核実験の島ビキニや周辺の汚れた島々は、今どうなっているのだろうか。

 「ビキニ島の女性たちが一時帰島」―首都マジュロ島で発行されている週刊紙「マーシャルアイランド・ジャーナル」の最近号に、こんな記事が載った。島を訪ねたのは、現在キリ島に住む戦後生まれ、つまり故郷ビキニをまったく知らない若い女性ばかり60人である。「初めて踏みしめる父祖の地に涙を流し、去り難い思いを胸にキリ島へ戻った」と記事は伝えている。

 ビキニが「核の島」として米国に接収されたのは1946年のことだ。島民は「人類の幸福のため」という意味不明の理由で島を追われた。半世紀近くたった今も、望郷の念を抑えつつ千キロ南の孤島・キリ島に500人余りの人々が住む。

 米国は1973年、島民の強い要請で実験場の放射能汚染を取り除き、住宅を建てヤシの木を植えて、一部島民を帰島させた。しかし、23回に及ぶ核実験の汚染は、表土を削り取ったくらいでは消せなかった。5年後、帰島者の放射線被曝線量が異常に高くなっていることが分かって、再びキリ島へ戻った。定住の夢破れた人たちの落胆も、冒頭に紹介した女性たちの涙も、ビキニを追われた「流浪の民」の悲劇を物語ってあまりある。

「倉庫を造れば…」

 そんなマーシャルの島々に今、新たな「核問題」が進行している。アマタ・カブア大統領が提唱する核廃棄物投棄場計画がそれで、国の財源確保のため、日米などの原発でできる汚染物質の貯蔵を引き受ける、というのだ。場所は「死の灰」が多量に降ったロンゲラップ環礁北部の島を充てる。

 むろん、メジャトに集団移住した旧島民は猛反対している。このため計画は宙に浮いているが、カブア大統領をプレハブの「ホワイトハウス」に訪ねると、遂行になお執念を燃やしていた。

 カブア氏は「大統領」であると同時に「大酋長」の肩書を持つマーシャルの絶対権力者である。その彼の、核廃棄物受け入れの論理はこうだ。

 「ロンゲラップ環礁の北側は、放射能で汚れきっています。日本やアメリカが、しっかりした倉庫をつくって、そこに(廃棄物を)入れれば、南側に島民も戻れるでしょう。学者も大丈夫だと言っています」。そして一言、戦前の日本統治時代に覚えた日本語で「マーシャルはお金がないんですよ」と付け加えた。

 大統領が思い描く「倉庫」というのは、どうやらエニウェトク環礁北部のルニット島にあるコンクリートドームのことらしい。エニウェトクはビキニと並ぶ核実験場だった。1948年から1958年まで43回の実験が繰り返された。そして1977年、島民に返還するため、実験跡の巨大なくぼ地に汚染物を集めてコンクリートで密封した。流浪の生活を続けていた旧島民は今、米国が「安全」を力説するエニウェトク環礁南部に住んでいる。コンクリートドームがある北部は、依然として立ち入り禁止のままである。

 カブア大統領は、エニウェトクでの「核とのすみ分け」の試みに勇気づけられ、核廃棄物のロンゲラップへの受け入れを計画したのだ。

 「オレは『安全』という言葉を信じない。大統領提案は許せない」。移住先のメジャト島で、被曝者の1人、エドミール・エドモンドさん(58)は憤然とこう言った。

 「でも故郷の島は汚れているし、お金も入るでしょう」とわざと意地悪い質問をぶつけると、彼は「コンクリートが壊れたり、津波に襲われたら、マーシャルだけの被害ではすまないんだよ」と断固とした口調で言った。

 大統領の執念と「核難民」の非核感情が正面からぶつかるのは、これからだ。

特別巡回船で検査

 ロンゲラップ島民が「死の灰」を逃れて移住したメジャト島を訪ねた日、沖合に50トンほどの船が1隻、いかりを下ろしていた。米エネルギー省(DOE)が、島民の放射線被曝検査のために派遣した特別巡回船だというので、ボートに便乗して船を訪ねてみた。

 船の甲板にはコンテナを改造した検査室が3つ並んでいる。尿の中のストロンチウムを測定する部屋では、時間待ちの少年たちがビデオを見ている。別の検査室では、中年の女性が円筒型の機械を腹部に当てて、放射線被曝線量を測定中だった。

 検査技師の頭越しに写真を撮っていると、検査チームの責任者だというブルックヘブン国立研究所のキャスパー・スン博士が声をかけてきた。「島民の体内からプルトニウムもセシウムも検出したことはないよ。出るのはKフォーティー(カリウム)くらいさ。カリウムなら君も持ってる」。要するに博士は「騒ぐことは何もないよ」と言いたかったのだ。

 島に戻ってマーシャル人の通訳、ネルソン・アンジャインさん(61)にスン博士の言葉を伝えると、「彼らはいつもあの調子でうそをつくんだ」と、チッと舌打ちして言った。

 島民が対米不信を募らせるのも無理はない。1987年、島民が独自でカナダ、西ドイツなどの科学者に、ロングゲラップ島の残留放射能の再評価を求めたところ、米国の「安全論」に疑問を投げかける見解が示されたのだ。

 DOEのデータを基に再評価し、1988年4月にまとめた報告書によると、島民向けには「ない」と言っていたプルトニウムやアメリシウムが、微量ながら島民の尿から検出されていた。また、米国が「安全」と言う被曝者の体内に蓄積された放射性物質についても「体外へ排出されるのを見極めることが重要」と指摘し、ロンゲラップ島民の帰島に慎重な判断を示している。

 カナダ、西ドイツの科学者グループから報告書が届く直前、定期検査のためマジュロ島を訪れたDOE医療チームの医師は「マーシャルの被曝者の甲状腺障害発生は峠を越した」と島民に伝えた。

 「あんな言葉、額面通り受け取ったものは1人もいないよ」。被曝者の1人、ボアス・ジェイランさん(59)は腹立たしそうに言った。

第5福竜丸に強い関心

 マーシャルでの取材中、多くの被曝者から「第5福竜丸の乗組員はどうしているか」と、尋ねられた。ロンゲラップ島よりさらに30キロ、ビキニに近い海上で「死の灰」を浴びた23人のその後は、島民にとっても他人ごととは思えないのだろう。

 「交通事故の1人を含めて死亡者は8人。生存者15人は毎年検診を受け、放射線医学総合研究所(千葉市)は『異常はほとんどない』と言っている」―そう説明すると、島民は「日本ではちゃんとした医療を受けられるんだろうなあ」と、一様にうらやましそうに言った。特に首都マジュロ島で会った被曝者のチャーボエ・ジョルジョさん(60)の静かな日本語まじりの言葉が今でも耳に残っている。

 「内地(日本)にはポイズン(放射能)に詳しいお医者さんが多いって聞いている。内地の病院で診てもらえないかなあ」

 生まれ故郷の島を追われ、被曝から35年を経た今もなお、マーシャルの被曝者たちは信頼のおける医師を持てない。ジョルジョさんの言葉には、そんな被曝者の、あきらめにも似た悲しみが塗り込められているかのようだった。