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世界のヒバクシャ

3. 補償求め訴訟提起

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第4部: 英核実験の忘れ物

爆発数分後に降る

 「私が失明したのは核実験の時に降った黒い霧のせいだ」。アボリジニー復権運動のリーダー、ヤミ・レスターさんの訴えは、1980年5月3日付のアデレードの新聞「アドバタイザー」に掲載され、大きな反響を呼んだ。

 英国が核実験を始めてから27年余。だれにも知られることのなかった「砂漠の狩人」アボリジニーの被曝問題が、彼の証言によって初めて明るみに出た。彼は今、失明に対する補償を求めて、オーストラリア政府と闘い続ける。

 レスターさんはオーストラリア中部、アリススプリングス一帯に住むピティンジャラ族(約5千人)の代表として、白いつえを手に、砂漠の村を回って、アボリジニーの生活向上の活動に打ち込む。

 彼が核実験の「黒い霧」を目撃したのは1953年10月15日で、同族の40人とともに、大ビクトリア砂漠のエミュー核実験場から北東170キロにあるワラティンナにいた。そこは立ち入り禁止区域の外だった。

 「朝、ドーンという爆発音が聞こえて大騒ぎになった。それから4、5分後だったよ、砂まじりの黒い霧が降ったのは」

 2、3週間後、レスターさんは右目を失明し、左目も視力が衰え、4年後に失明した。「一緒にいた仲間も下痢、吐き気、目の痛みなんかの変な病気になったよ」と言う。

 彼の話からみて放射線被曝の急性症状のようでもある。しかし彼は、当時まだ12歳前後の少年だった。「自分のことは覚えてるけど、他の人のことは詳しく知らない」と付け加えた。

 だが、彼の被曝証言は、核実験被害の新証言につながった。白人の中からも「砂漠でアボリジニーの死体を見た」「私たちも黒い霧を浴びた」「実験のことは周辺に知らされていなかった」といった証言が相次いだ。

政府の被害調査委員会発足

 こうした証言に加え、核実験参加兵士の補償要求も増え始め、政府は被曝問題を放置できなくなった。1984年の7月、政府の核実験被害調査委員会が発足し、さまざまな角度から核被害についての検討が加えられた。

 1年後、調査委員会はワラティンナのアボリジニーが被曝した可能性を認め、何らかの補償をするよう勧告した。しかし、レスターさんの失明については「核実験が原因かどうか不明」と、歯切れが悪い。アボリジニーの劣悪な衛生状態から、委員の間ではトラコーマ原因説が強いのだ。

 レスターさんは1989年8月、広島、長崎両市を訪れ、原爆被爆者との懇談会や市民集会で体験を語った。

 「核実験を進めた科学者がラジオで、アボリジニーが被曝しないよう最善を尽くしたと語っているのを聞いて腹が立ち、新聞社に告発した」「私たちは土地を奪われたうえに被曝で苦しんでいる。それなのに補償問題や、核実験場の放射能汚染除去問題での政府の対応は鈍い」

 政府がアボリジニーに示している補償方法は、労働者損害補償法に倣っている。つまり、失業手当に準じて被害補償しようというのである。

 「私たちは放射線による被曝後障害の影におびえている。それを失業手当と同じ扱いにするなんて納得できない」とレスターさんは憤る。

 レスターさんとともに補償を求めているアボリジニーは現在14人。政府は近く最終的な態度を決める予定と伝えられる。要求が入れられない場合、レスターさんらは法廷で争う覚悟である。