2. 防護服なしで実験参加
13年2月13日
第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第5部: クリスマス島 英核実験被害者たち
第5部: クリスマス島 英核実験被害者たち
地獄のような体験
英国グラスゴー市郊外に住むケン・マッギンレイさん(50)は、1958年4月28日、400人余りの兵士とともにクリスマス島の浜辺に座ってその瞬間を待っていた。
「カウントダウンが始まってこぶしで目を覆った。ピカっと光った瞬間、自分の手の骨が透けて見えたよ」
島の沖合約15キロで、飛行機から投下されたメガトン級の水爆が炸裂した時、マッギンレイさんらは防護服も眼鏡も着けていなかった。「すさまじい熱と爆風、爆発音、きのこ雲…。そりゃ地獄のような体験だった」。当時19歳だった彼は、その時の様子を生々しく語った。
恐怖のあまり泣き叫ぶ兵士や精神に変調をきたして本国へ送還された兵士もいた。マッギンレイさん自身も数日後、顔、腕、手に炎症を起こし、全身に赤い斑点ができた。胃がむかついて何も食べられなくなるし、体中かゆみと痛みで眠ることもできなかった。
島の軍病院で治療を受けたが、それ以降、被曝前の元気な体に戻ることは二度となかった。8月の2回目の実験の後、のどの痛みがひどくなり、今度はハワイの米軍病院へ入院した。「扁桃腺(へんとうせん)が悪い」との診断で摘出手術を受け、再びクリスマス島へ戻った。そしてさらに3回の実験に立ち会った。その後体調は悪化するばかりで、12月には本国へ帰還命令が出た。
「島へ行く時は何の説明もなし。島を離れる時は『ここで見たことは新聞、ラジオ、その他だれに対しても話してはならない』と厳しい箝口令(かんこうれい)が出た。軍の秘密順守法を盾にね。いくら国防のためといっても、兵士の健康まで犠牲にしていいわけはない」とマッギンレイさんは言った。
被曝退役軍人協会を設立
やがて帰国直後の12月24日、グラスゴー市近郊の故郷の教会で、彼はミサの最中に倒れ、吐血した。軍の病院に1週間入院。翌年、十二指腸潰瘍の手術を受けた後、「病弱」を理由に除隊通知を受け取り、わずかばかりの傷病年金をもらった。
その時、彼はまだ20歳だった。その後、1960年に結婚した妻のアリスさん(47)と共働きで、何とか生計を維持してきた。しかし、手足のむくみや目まいの症状は一向によくならない。1976年になると、主治医から「子供がつくれない体になっている」と告げられる。
「なぜかって聞くと、医師が『放射線を浴びたんじゃないか」と、何気なく言ったんだよ。ショックだった。それで初めて、自分の体が核実験にやられたことに気づいたってわけさ」
体調がどんどん悪化し始めた1982年、傷病年金が10パーセントもカットされ、国に対する怒りは頂点に達した。兵役期間中の自分の医療記録を調べ上げた。しかし「入院治療」の記入はまったくなかった。
「自分たちは何も知らずに国のために働いたのに、国は真実を隠して、ごまかしばかりやっている。そのことが腹に据えかねた」。マッギンレイさんは、テレビカメラの前で初めて自らの体験を語り、国の責任を問うた。全国に放映されたテレビの反響は大きかった。電話や手紙で、体の異常を訴える被曝退役軍人やがんで夫を失った妻たちから連絡が次々と入った。
「みんな、こんなに苦しんでいたのか」と知ったマッギンレイさんは、被曝兵士と連絡を取り合い、1983年5月、約200人で英国被曝退役軍人協会を設立した。
今、会員は夫を失った妻たち200人を含めて約2千人を数え、全国に16の支部がある。放射線の専門医や弁護士の協力も得られるようになった。しかし、政府に責任を認めさせ、補償させるのは容易ではなく、本当の闘いはこれからだという。
2年前から故郷でパンの卸販売をするマッギンレイさんは、仕事の合間をみては、手弁当で協会の世話に駆け回る。彼のノートには、アンケート調査に答えた会員の家族の健康状態がぎっしりと書き込まれていた。