2. 被害不明の下請け労働者
13年2月19日
第4章: インド・マレーシア・韓国
第1部: 核と貧困―インド原子力開発の影
第1部: 核と貧困―インド原子力開発の影
「体中に赤い斑点」
私たちはタラプール核施設から約10キロのパルガー村で開業するプラモード・パティル医師(38)に会った。
「急性放射線症状に違いないとピーンときましたよ」。彼は1年前の出来事を振り返りながら言った。古めかしいエックス線撮影装置や医療器具が、4畳半ほどの診察室をいっそう狭くしている。
「連れ立って来た2人の男は、体中に赤い斑点が出て、下痢で苦しんでいましたよ」。彼らは遠くから出稼ぎに来たタラプール核施設の下請け労働者だった。パティルさんが詳しいことを聞こうと思っても、なかなか言葉が通じなかった。診察を終え、もう一度来るように伝えた。だが、それっきり2人は姿を見せなかった。
インドでは公用語だけでヒンディー語など16もあり、種族の言語を加えると300を超える。放射線被曝の可能性が高い作業に就く下請け労働者は、斡旋業者を通じて南部のケララ州などから集められているという。
「その地域の言葉が話せないということは、彼らの体験が外に漏れにくいということですよ」。そう言って、パティルさんは大きく肩をすくめた。多量の放射線を浴びた下請け労働者は、直ちに郷里へ送り返す。当局の文書にはもちろん、被曝記録は残らない。
下請け労働者は、放射線の危険性について教えられることもなく、その単語さえ知らない人がほとんどである。仮に、被曝がもとで後年になって発病したとしても、本人や周囲の人には放射線被曝のことは分からない。
閉鎖的な原子力庁
核物理学者で、通信社「プレス・トラスト・オブ・インディア」の編集長でもあるキリグディ・ジャヤラーマンさん(52)は「タラプールではこれまでに、作業従事者の年間線量限度(5レム)をはるかに超えて被曝した労働者が、少なく見積もっても300人はいる」とみる。
1980年3月14日、原発1号機で起きた炉心からの冷却水漏れ事故では、修理に当たった技術者ら26人が直ちにボンベイの病院へ運ばれた。当時のインディラ・ガンジー首相は事態を重く見て、原子力庁の責任者2人をボンベイからニューデリーに召喚している。それでも原子力庁は事故の内容を一切公表していない。
この事故について原子力庁は最初、新聞報道を否定していた。ところが、国会で問題になって認めざるを得なくなった。
「もっとも、認めたのはピンホール(小さな穴)ができたというだけ。新聞報道は大げさだとかみつきましたよ。一事が万事こんな調子だから、下請け労働者の被曝実態などつかみようもない」。ジャヤラーマンさんはこう言って原子力庁の閉鎖的な体質を嘆いた。
タラプール核施設に最も近いアカラパティ村の中心部に、背丈ほどの告知板が立っている。それはこの原発で18年間、原子炉の保全修理作業に当たってきた1人の労働者の死を告げていた。
「アジー・パティル。50歳。1989年12月5日午後9時、永眠」
ヒンズー教の教えに従い、頭髪をそって喪に服す息子のパラシャームさん(22)。「死因は心臓発作だとされているがね。フィルムバッジも付けずに核施設で働いていたんだ。死因はどうあれ、放射線被曝の影響がなかったとどうして言えますか?」。村の長老ダタトラヤ・パティルさん(65)が、無口な息子に代わって説明した。
告知板は、証明するすべを何1つ持たない村人たちの、当局へのささやかな抵抗のように見えた。